#21 目代耀太はポジティブである
ツイていないことが起こってもめげない。一日が残念な結果に終わっても、「明日はなんとかなるさ」と切り替えられる。ちょっとしたことに「ハッピーだ」と喜べる。
「離婚してください」
自分で興した会社が倒産し、路頭に迷うことが確定したとき、妻にそう告げられた。家も車も売って、身の回りのものもほとんど売り飛ばして、手元に残った物はわずかな金とスーツ、父親からもらった時計と、それだけだ。
首を吊ることも考えた。しかし、幸運なことに身体は健康だったし、会社経営に疲れた人生に束の間訪れた夏休みだと思うことにして、こう言った。
「わかった。今後の君の人生が幸運であることを願っているよ」
この昔話をすると、ホームレス仲間はみな笑った。
「ジロさん格好良すぎるだろ」
「映画の台詞かと思ったわ」
「ジロさんのドキュメンタリー映画、誰か作んねえかな」
「そしたら俺たちも、あの、なんだっけ。えっと、エトセトラ? とかで? 雇ってもらえっかな」
「エトセトラってなんだよ」
「ケセラセラの間違いだろ」
「ケセラセラは今の俺たちだろ!」
「だっはっはっは」
現金払いかつその日払いの日雇いバイトに精を出す。
週に二度銭湯に行き、週に三回洗濯をし、鍵がバカになっている廃ビルで夜を過ごす。
「明日FCCが炊き出しやってくれるらしいぞ」
「ありがてえありがてえ」
「ジロさんも行くよな?」
「もちろん」
福祉団体やFCCなどが、時々物資配給や炊き出しをやってくれている。ありがたいことだ。できるだけ世間に迷惑にならないよう、身なりはそれなりに気をつけるし、公共の場所には行かないようにしている。しかしそれでも多少、人の目に触れてしまうことは避けられない。
「お、美人と目があったぞ」
「マジかよジロさんいーなー」
「蔑みの目で見られたんじゃね?」
「それすらご褒美だろ」
「だっはっはっは」
本来炊き出しはFCCの仕事ではないはずだ。
あの制服は少々威圧的だが、態度はとても柔らかく、目代たちのような住所不定無職の人間にも優しく接してくれる。
「FCCがいると、フール事件が起きそうで怖くねえか?」
「いやいや、フールが出てもすぐに制圧してくれそうで、逆に安心だわ」
「なるほど、それもそうか。ケンちゃんはどう思う?」
「え? おれ?」
「ケンちゃん」は目を伏せ、おどおどとしている。普段もあまり快活な方ではないが、今日は特にその傾向が強いように思えた。
「FCCは……ん……怖いけど……頼りにしてる……」
小さな声でそう言った。
「怖いけど頼りにしている」とは妙な表現だ。
「しかしよ、俺がフール化したらカテゴリーがなんなのか、FCCに教えてもらいたいもんだぜ」
「わかるのか? そういうの」
「それくらいの技術、もうあるんじゃね? 自分がカテゴリー1だとわかったら安心できるんだけどなあ」
「あー、そうだな」
「みんな自分のカテゴリーわかる? ていうかフール化した経験あるのか?」
フール化は自覚できない。ただ周りの反応を見て、おそらく自分はフールになってたんだな、と気づくことがあるくらいだ。カテゴリー1なら周りも気づいていないことが多い。
「俺はカテゴリー2かもしれねえな。昔妻にも暴力を振るっちまってたらしいから」
目代は覚えているだけでも三度ほど、フール化していたらしい。あのときの妻の目はもう思い出したくない。カテゴリー3ではなかったが、それでもフール化は二人の関係を悪化させる一因になった。
「ジロさんが暴力的になったって!? 想像できねえー」
「じゃあ向こうのジロさんは、その間温厚になってたのかな」
「向こうの奥さんもびっくりしたかもな」
「あ、あのさあのさ、ジロさんがフール化したらさ、会社がうまくいってた世界線のジロさんになったりしねえかな?」
「え、じゃあ、おごってくれよ、金持ちなんなら」
「俺、銭湯の回数券が欲しい」
「いやいや、いい酒だろ、一升瓶で」
「そしたらつまみもいるだろ!」
「冬用に暖かいダウンジャケットも買ってほしいな」
「雨風しのげるプレハブとか建ててくれねえかな」
「ビルがあんだから、それはいらねえだろ」
「いや俺たち専用で使える、って意味だよ」
「おいおい、フール化したって俺の記憶はないし、そもそも向こうの俺が金持ちだったとしても金は持ってこれねえだろうよ」
「あ、そっか」
バカな話ばっかりだ。しかしこういう会話が、目代には日々の楽しみだった。
「ケンちゃん、どうだ? お前は自分のカテゴリーとか、知りたくねえのか?」
「俺は……」
ケンちゃんはときどき話題を振ってやらないと、自分からあまり話さない。
「俺は……自分のカテゴリーなんて……知りたくないよ」
「ん? そっか? なんで?」
「だってさ、フール化しなくてもカテゴリーがわかっちまったらさ、3のやつが今よりひどい差別を受けるじゃん?」
「ああー」
「……確かに」
「差別はダメです」なんて、小学生でも知っている。しかし知っていることと、自分がしないでいられることは別問題だ。カテゴリー3の情報は徹底して伏せられるが、それでも身近な人間には周知の事実として残ってしまう。「どこどこの誰々がカテゴリー3だったらしいぞ。FCCに殺されたらしいぞ」なんて、井戸端会議のネタにされる。
「だから俺は……わからない方が幸せだと思う……」
ケンちゃんはそう言ってうつむいた。もしかしたら身近にそういう人がいたのかもしれないな、と目代は思った。
「ケンちゃんは優しいなあ」
「俺ぁ差別はしねえよ? ただしホームレスを差別するやつぁキライだけどな!」
「そりゃ俺もだ」
「んだんだ」
「もし俺が……様子がおかしかったらお前らすぐ離れろよ? カテゴリー2は数日入れ替わったままなんてこともザラらしいから、その間は近づかねえようにな」
目代は過去の負い目があるので、仲間にもそう忠告した。自分ではそのときのことを覚えていないが、妻の様子や言葉から、自分がひどい人間に変貌していたのは知っているのだ。
薄ぼんやりとした数日を過ごした後、ふと視界がクリアになった気がしたら、妻の目が変わっていた。びくびく、おどおどと自分と接し、奇異なものを見る目。また暴れ出したらどうしようとでも思っているような顔。
仲間たちにもあの目を向けられたらと思うと、怖い。
さすがにこれに関しては、目代もポジティブにはなれなかった。
「あっ……俺も……」
ケンちゃんも話し出した。
「俺も……様子がおかしかったら、すぐに離れて。みんなを危険に巻き込みたくないんだ。蹴っ飛ばしていいから。見捨てていいから」
珍しくそう主張する。なにか思うところがあるのか。
「やっぱケンちゃんは優しいなあ」
「だいじょうぶだいじょぶ、俺ら、みんな寄ってたかって押さえつけるからよ」
「あ、でも無理だと思ったら逃げるから」
「はっはっは! 一番最初に逃げるのはお前だろうな」
「うっせー!」
「ケンちゃん、俺たちそんな薄情もんじゃねえぜ? 仲間だろ?」
「う……うん……ありがとう……」
どうも今日のケンちゃんの様子はおかしい。
だが目代は指摘しなかった。
誰にでも過去や背景がある。隠したいことも後ろめたいこともある。それをオープンにするかどうかは本人次第だし、根掘り葉掘り聞くのは野暮というものだ。パーソナルな部分に踏み込みすぎない。それが暗黙の了解でもあり、目代が心がけていることだった。
――――――
ケンちゃんが化け物に変貌していくのを、目代は絶望的な気持ちで見つめていた。
あのとき語っていたのは、ケンちゃん自身が自覚していたからこそなのだろうか。
仲間たちは「押さえつける」なんて言っていたが、とても人間の手に負えるようなものではなかった。
「離れ……て……ジロさ……ん……」
まだケンちゃんの意識はある。こちらに語りかけようとしてくる。
しかし目代はまだ動けなかった。
「俺……が……暴れる……前に……早くッ!!」
路地裏に他の人影はない。
誰が通報したかわからないが、そこらじゅうで警報が鳴っている。
他の仲間たちがたまたま近くにいなかったのは幸運と言ってよかった。もう警報を聞いてシェルターに避難しているだろう。フール関連の非常時、目代らホームレスでも、各シェルターを使用することに不都合はない。ごくまれに文句を言ったり顔を顰めたりする者はいるが、可能な限り身なりに気をつけている目代たちは、ほとんどそういった扱いを受けたことがなかった。
「逃げ遅れの、あー、路上生活者らしき老人発見」
突然、背後から声がした。
「おじちゃん、避難するよ」
驚くほど軽い動作で、抱え上げられた。
小柄なFCC隊員だった。
警報はまだ鳴りやまない。
路地から離れた小さな公園で降ろされる。
目代以外に近くに人はいなかった。
「他の隊員が来るまでここで待ってて。すぐに助けが来る。そしたらシェルターに……」
「ケンちゃんを……助けてやってくれ!」
「ケンちゃん?」
「あいつ……最後まで俺の心配してやがった。いいやつなんだよ。優しいやつなんだよ」
「ああ……わかった。任せて。必ず助ける」
「メジロが心配してたって! 伝えてくれ!」
「OK!」
そしてそのFCC隊員は踵を返し、恐ろしいスピードで駆けていく。
警報に紛れていたが、たしかに戦闘の音が、目代の耳にも届いた。
「頼む……殺さないでやってくれ……」
知らず知らず、目代は手を握って祈っていた。
信仰心など特に持ちあわせていなかったはずだったのに。
爆発音は聞こえてこなかった。
それがいいことなのか、悪いことなのか、目代には判断できなかった。
――――――
ケンちゃんがフールになって1週間が経った。
結局あの後、目代は別のFCC隊員に連れられてシェルターに避難することができた。
しかし自分の安全よりも、ケンちゃんの安否ばかりが気になっていた。
間近で見たのは初めてだったが、カテゴリー3というのが本当に化け物じみた姿をしていることを知った。膨れ上がる上半身。およそ人間の色とは思えない毒々しい肌の色、目の色。最後の瞬間、目元や口元にケンちゃんの名残はあったが、変化する過程を見ていなければ目代でもあれをケンちゃんと認識できなかっただろう。
カテゴリー3のフールが、どんな風に倒されるのか、目代は詳しく知らなかった。ただ最後は爆発して死ぬらしい、ということだけ。そのときケンちゃんの意識はあるのだろうか。苦しいのだろうか。
せめて安らかに逝けていたら、と願わずにはいられない。
ガサッ
何気なくいつもの廃ビルに入ろうとしたとき、ドアノブに違和感があった。
「ん?」
「どうしたジロさん?」
ドアの内側に、ビニール袋が提げられていた。
真新しい段ボール箱も床に置かれている。
「お? なんだこれ」
「差し入れか?」
「誰からだよ、はっはっは」
ここのことを知っている人間は、他にはいないはず。
右斜め上に体重をかけてドアを押し、ドアノブをひねって右下に引く開け方を知っているのは、目代を含めたこのメンバーだけだ。
「わ、酒だ!」
「つまみもあるぞ! 賞味期限が切れてないぞ!」
「うひょー!」
「缶詰もいっぱいあるぞ、すげえな」
一体なぜ、誰が、という疑問は、すぐに消えた。
目代の目に映る、大量の銭湯の回数券。そして人数分の真新しいタオル。
「ご丁寧に人数分用意してくれたんだな……律儀なやつだ」
何気ない雑談のことを覚えていてくれたのだろう。
「やっぱりケンちゃんは優しいな」
「あ? ジロさん、なんだって?」
「よかった……ケンちゃんは生きてる。どんな魔法を使ったか知らねえが」
ただ、姿を現さないということは、生きていることを大っぴらにできないなにかがあるに違いない。こうしてこっそり差し入れしてくれるのが精いっぱいなのだろう。
「おーし、今日は祝杯だ! ケンちゃんに献杯だ!」
「どっちだよ」
「ケンちゃんは結局生きてんのか? 死んだのか?」
「世間的には死んでる。だから献杯だ!」
「でもジロさん、さっき祝杯って言ったじゃねえか」
「そりゃあケンちゃんが生きててよかったなあ、って意味だよ」
「言ってることめちゃくちゃだぞジロさん」
「いいんだよ、だっはっは!」
いいことがあったときは飲む。
なにも問題はないはずだ。
「生きてりゃいいこともあるもんだ!」
このときの目代はまだ知る由もないが、この廃ビルの鍵が付け替えられ、人数分の合鍵がこっそり届けられ、さらに冬になると高級なダウンジャケットと毛布が届けられ、仲間たちはたいそう喜んだ。
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