#8 橘英介は素直である

たちばな英介えいすけは素直である。


母親が「17時には帰ってきなさい」と言えば、それに従った。寝る前にはトイレに行ったし、歯磨きは毎食後欠かさずしたし、どんなに仲の良い友だちでも自転車の二人乗りはしなかった。

「サイドを刈り上げるのは校則違反だ」と聞けば床屋での注文の仕方を変えたし、「制服を着崩すのはもうダサい」と聞けばきちっと制服を着るようになった。好き嫌いなくなんでも食べたし、どの教科もまんべんなくできたし、先輩からのアドバイスはなんでも素直に受け入れた。


良く言えば素直でまじめ、協調性がある。悪く言えば積極性と主体性がない。それが英介に対する周りの大人の評価だった。




あるとき、英介は町でデモ団体を見かけた。幅広い年齢層の男女が連なって歩いている。警察が周囲を警戒していたが、大声を出すものの暴力的な動きはないようだった。腕章や旗には「入れ替わり事象人権団体」とあった。


「呼称『フール』の撤廃!」

「撤廃!」

「入れ替わっても人間!」

「人間!」


曰く、入れ替わった者を「フール」と呼ぶことへの嫌悪感を表明しているらしい。

あまり考えたことはなかったが、確かに「フール」という呼び名は少し良くないという気もする。その代わり、「アナザー」だとか「ニア」と呼ぶべきだ、と叫んでいた。入れ替わり事象自体への研究は日々進み、人類の理解も進むが、それでもやはり「よくわからないもの」への畏怖はぬぐいきれないものだ。実際英介自身も、「よくわからない」という理由で怖がってしまっている部分はあった。


「カテゴリー3の遺族への、差別は絶対反対!」

「反対!」

「入れ替わり事象による、被害者の権利を守れ!」

「守れ!」


その人権団体の主張は、妙に英介の耳に残った。




あるとき、英介は唐突に恋に落ちた。

高校の入学式の日、自分の隣に座った少女は、あまりにも英介の好みにぴったりであった。控えめな所作、その横顔、自己紹介の時の鈴が転がるようなきれいな声。


英介は、これまで誰かを強く好きだと自覚したことがほとんどなかった。中学の頃、周りの男子が「誰が好きか」「誰が可愛いか」を嬉々として話しているのを見ながら、自分には恋心というものがないのかと落ち込んだこともあった。

どういう人が好きかなんて考えても思いつかなかったが、目の前に現れた彼女こそが自分の好みなのだと知った。順番が逆かもしれない。しかしそれでもいいと英介は思った。それほどまでに彼女との出会いは衝撃的であった。


「あ、えっと、おれ、橘。よ、よろしく」


たどたどしいあいさつだったが、彼女は素敵な微笑みを返してくれた。


「私、茅野みゆき。よろしくね、お隣さん」


よく見れば彼女は少し震えていた。新しい環境に緊張していたんだろう。そのうえで、自分の一生懸命なあいさつに健気に答えてくれた。それがさらに、英介の心に波を立てた。




入学式から数日、いつも英介の目は彼女を追いかけていた。いくらでも見たい。目に焼き付けたい。少しでもおしゃべりをしたい。彼女の好みや趣味について知りたい。同じ感動を共有したい。


夢のような日々だった。だが突然その日々は終わりを迎えた。




久しぶりに彼女を見かけた5月。

当たり障りのない会話が、英介の心を満たした。


だが……。


「おい、どしたん? 気分でも悪いん?」


授業中、急にうつむいて肩を震わせ始めた彼女を見て、英介は声をかけた。

よく見ると尋常ではない顔色。大量の脂汗。お腹でも痛いのだろうか。とにかく救急車を呼ぶべきでは。最低でもすぐに保健室に……。そう思った英介だったが、クラスメイトが叫んだ言葉を聞いて全身が凍り付いた。


「カテゴリー3や!!」


そこからの数分間のことを英介はほとんど覚えていない。

阿鼻叫喚の教室。教師の怒号。FCCへの通報。体育館地下への避難。

通常カテゴリー3のフールは変身し終わるまで約1分を要する。テレビでの知識だ。しかし誰もがそれを知っていた。だから1分以内に避難区域外へ出るかシェルターへ避難する。学生に限らず様々な施設や仕事場で避難訓練は行われている。


とはいえ、実際に隣人がカテゴリー3のフールを発現する様子を見た者はほとんどいない。ほとんどすべてがニュースになるが、実際の出来事として経験する人間は思いのほか少ない。同じ災害のようなものではあるが、広域を巻き込む台風や地震とは違うのだ。隣の町で起こっても気づかない。そこまで逃げてくるフールはいない。それだけFCCの活動は市民の安全を守っていた。


英介は必死に逃げた。たぶん。

必死に体育館の地下シェルターに同級生と飛び込んだ。たぶん。

気づけば英介はシェルターの片隅でガタガタと震えていて、FCCが彼女を処理するのをひどい気持ちで待っていた。カテゴリー3に遭遇したことも怖かったが、好きになった人がそうなってしまったことも震えるほど怖かった。FCCが彼女を処理するのをただ待っている自分も怖かったし、彼女がこの先どうなってしまうのか、おそらくどう楽観的に見てもいい結果は期待できないということが怖かった。




それから数十分が経ち、避難命令が解除され、学校はしばらくの間休校となった。

彼女は同じ中学の子がいなかったようで、ほとんど親しい友人がいないようだった。そういえば関西弁でもなかった。関東の方から引っ越してきた子だったのだろうか。そんなことも知らなかった。


彼女を失った喪失感と過ごしながら、数日が経った。




あるとき、ふと思い立って梅田の方へ出た。楽しい気持ちになりたいと思ったわけではなかった。ただ雑踏をふらふらと歩きたいと思ったのだ。


抜けるような青空。英介の心情とは真逆だった。


誰も彼もが、爽やかな顔で過ごしている。楽しい場所も、憩いの場所も、なんでもある町。だけど英介の心を満たしてくれる人は、もういない。この町にも、あの町にも、この世界のどこにも。そう思っていたのだが……。


FCC隊員のパトロールを見かけた。二人組で周囲を見回しながら歩いていた。体形から見て女性だろう。「あのとき」にも出動した人だろうか。それとも戦闘員ではないのだろうか。なにか情報が得られないだろうか。そんなことを考えながらぼーっと英介は見つめていた。


突然ぴくっと英介の体がはねた。


あの口元、笑ったときの口角の上がり方、歩き方、手の動かし方。


英介は知っていた。


「あ、あのっ!!」


思わず声をかけてしまった。迷惑だったかもしれないが、そんなことを配慮する余裕はなかった。メットで目は隠れているが、この口元は、絶対に……。


「……橘くん……!?」


やっぱり、茅野みゆきだった。英介が恋い焦がれ、わけもわからぬまま失って悲しみに暮れた相手だった。勘違いじゃなかった。英介は膝から崩れ落ちた。




「誰? 知り合い!?」


長身の女性が尋ねている。その声には少しとげがあった。


「あ、えっと、高校で隣の席だった……橘くん……です……」

「そう……ちょっとまずいことになったね……」


死んだと思っていた人が生きていて、FCCの制服に身を包んでいる。

しかもフールとなってFCCに処理されて死んだと思っていたのに。そういう意味ではFCCは仇ではないのだろうか。いやしかし現実に生きていて、命を救ってくれた相手なのだろうか。だとしたらその事実は公表すべきでは? 英介自身のように「死んだと思っていて悲しみに暮れている」人間がいるのだから。そうだ、彼女の両親は? このことを知っているのか? いや、そもそもこれは本人なのか? フールとして死んだ彼女の偽物とか? いや、もっと根本的なこととして、今ここで起こっていることは現実なのか? 自分に都合のいい夢なのでは? すぐに目が覚めて、やはり彼女は死んでいたと布団の中で絶望するだけなのでは?


英介の頭の中はぐるぐると色んな事を考えたが、もう処理が追いつきそうになかった。


ピピッ


みゆきの隣の女性がヘルメットを操作し、なんらかの電子音が鳴った。


「あれ、この子、フールだね。カテゴリー1だけど」


英介はその言葉をうまく処理できなかった。


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