第6話
「天野」という表札の出たマンションの一室前にたどり着いたゴキブリ、もといマサヨシは、通販か何かの分厚い冊子が挟みこまれ、ちょうどゴキブリ一匹が通れそうなくらいの隙間が空いた玄関ドアの郵便受けを見つけると、「ブォオーン」と不気味な羽音立てて玄関ドアに「ビタッ!」と垂直に飛びついた。そして共用廊下の蛍光灯でテッカテカに光沢を帯びた黒々しい体から伸ばした、黒魔術の素材になりそうな刺々した前脚と中脚と後脚計六本を使って、「カサカサカサ!」とスピーディかつグロテスクに郵便受けを目指した。
郵便受けをくぐり薄暗い
――素晴らしい! その気持ち良いほど気持ち悪い一連のスムーズな動き、もはや立派なゴキブリですね!
(やかましいわ!)
姿は見えないものの、どこからか見守っているらしい転生ガチャの精霊さんに向かって頭の中で叫ぶと、しかしマサヨシはまさにゴキブリらしい素早い動きで、三和土の横にある下駄箱を伝って玄関に上がり込み、リビングへと向かった。
それほど大きくはないシステムキッチンが備え付けられた、十畳ほどのフローリング敷きリビングにダイニングテーブルが置いてある。マサヨシはそこに飛び乗ると辺りを見回した。今はカーテンが閉められている窓側には鉢植えの観葉植物が置かれ、そばに三人掛けソファーが、その正面には白いスタンドライトと六十インチの液晶テレビがあった。左手には三つの居室につながるドアが見える。マサヨシは嗅覚が異常に発達した触覚から、いやおうなしに「ショウコの家の匂い」を感じ取った。十節に分かれたグニュっとやわらかい腹部にあるマサヨシの心臓が高鳴る。
――おや? マサヨシ君ってば、初めてお年頃の女の子の家に入ったもんだから、ドキドキとトキめいちゃってます?
(はぁっ? んなわけねえよボケ!)
図星をつかれマサヨシはムキになって反論した。
――照れ隠しにチンピラみたいな乱暴な言葉使っちゃって☆ もう、初々しいんだから♪ ゴキブリのくせに(笑)。
(殺す! 戻ったらぜってー殺すからなてめぇ!)
――はいはーい♪ お目当てのショウコさんのお部屋は、一番奥ですよー。
マサヨシは舌打ちしながら触覚をダイニングテーブルから一番奥まった場所にある片開きドアに向ける。
(……あそこから、ア、アマノさん、を出せば、ホントにオレは人間に戻れるんだな?)
マサヨシは念を押すように、転生ガチャの精霊に確認した。
🪳 🪳 🪳 🪳 🪳
(何が正義のヒーローだボケ! ゴキブリじゃねぇか!)
人間からゴキブリに変身するという、正気を失うレベルの出来事にパニックに陥り、その場でせわしなくウロウロと、いや「カサカサッ! カサカサッ!」と動き回っていたマサヨシが、ようやく「どうやらオレは、本当にゴキブリに転生したらしい」という結論に至り、声は聞こえるものの姿の見えない転生ガチャの精霊さんに向かって怒鳴りつけたのは、ゴキブリに転生してから十分ほど経ったころだった。しゃべれないマサヨシは、正確には怒鳴りつけたわけではなく、頭の中で罵声を思い浮かべただけなのだが、どうやらそれでコミュニケーションは図れるらしい。テレパシーみたいなものか。
ゴキブリとなったマサヨシは、公衆トイレの手洗いの縁にへばりついていた。もちろんマサヨシはそんな画角で風景を見るのは初めてだったが、それでもここが通学途中にある公園のトイレであるらしいこと、そして窓から差す初秋の陽の明るさから、今はちょうど昼どきくらいだろうことは分かった。
――おや? ゴキブリに何かご不満でも?
(アタマ湧いてんのかてめぇ! ゴキブリでどうやってショウコを助けんだよ⁉ )
いかにも芝居がかった体で「意外だ」とでも言いたげな転生ガチャの精霊さんに、洗面台の上にいるマサヨシは、触覚をいからせ禍々しい羽を大きく広げて吠えた。
おそらくウミガメの産卵シーンよりも貴重であろう「ゴキブリの威嚇行動」を目撃すれば、おぞましさのあまり身の毛もよだつのが常人であるわけだが、転生ガチャの精霊さんはどこ吹く風。そもそもマサヨシの心に直接語り掛ける言葉は聞こえるものの、マサヨシの目の前に精霊さんの姿はないのだから、威嚇行動そのものに意味がない。むしろ高みの見物のつもりか、そんなマサヨシの滑稽な姿をあざ笑いさえしている。
――あっはっはっは! さすが夏休み前の模試で希望大学の合格判定Fをもらったマサヨシ君、おつむがちょーっと弱いですねぇ。あなたはゴキブリが有する、まさに超人的と言える能力を知らないのですか? プークスクス!
(あぁ⁉)
――足が速い! 力が強い! なにより生命力が圧倒的! そんなスーパー昆虫がゴキブリさんなのです!
精霊さんが演説調に力強く語り始めると、マサヨシは(あ、こいつもう、人の話聞かないモードに入ったな……)と諦め、とりあえず精霊さんのご高説を賜ることにする。
――足の速さは人間換算で最高速度約300㎞! あごの力は大型ゴキブリなら人間の50倍! なにより、体内で抗菌物質を自ら作れるゴキブリの生命力は、二億五千年前に起こった地球史上最大の、90%超の生物が亡びた絶滅事件すら乗り越えるほどの驚異的強さ! 最近では「薬剤抵抗性」なんて殺虫剤の利かないタイプも出現するほどで、そのしぶとさといったらダイ・ハード! 絶対に死なないハリウッド映画の主演俳優か⁉ そうまさに! ゴキブリこそが! 正義のヒーローたる能力を持ったスーパー昆虫様なのです!
(……あのな。「人間換算」とかいう言葉でごまかされる思うか? 「ゴキブリ人間」とかに改造されるならまだしもよ、要するに、人間にスリッパかなんかでひねりつぶされる、ただのゴキブリだろがオイ?)
精霊さんの話を聞いている間、落ち着くためにいったん深呼吸していたマサヨシは、話がひと段落付いたらしいタイミングを見計らって、冷静かつ適切に反駁する。
――チッ。んだよここまで丁寧に説明してやったのにまだわかんねーのかよ。ほんとバカだな。
(図星付かれて反論できねえからっていきなり悪態ついてんじゃねえよコラ! バカはてめえだボケ!)
マサヨシは再び「ゴキブリの威嚇行動」を見せる。
――あっはっはっは! ご冗談を♪ 「ただのゴキブリ」というのは、ちょっと違いますよ? 実際、あなたは今、人間の記憶・知識を持ったままですよね? 人間の言葉が理解できるし、視力も聴力も人間のときとほぼ同様。高性能センサーであるゴキブリの触覚を持ちながら、人間の知覚能力と知識をも持ち合わせている時点で、あなたは立派な「スーパーゴキブリ野郎」ですよ!
(お前絶対バカにしてるだろ!)
――それに今回は、むしろゴキブリの姿の方が好都合なのです。
(はぁ⁉)
――あなたには、アマノショウコさんを、彼女が閉じこもる部屋から、そして自宅から、外に追い出してほしいのです。彼女、ゴキブリが大の苦手ですから。それができれば、彼女の命は救われます。
🪳 🪳 🪳 🪳 🪳
(おい。聞こえてんだろがコラ。ほんとに人間に戻れんだよな⁉)
――イグザクトリー(そのとおりでございます)。
精霊さんは低音のイケメンボイスでキリっと、国語の授業で音読するみたいに「カッコ そのとおりでございます カッコ閉じる」までしっかり言い切って答えた。
アマノショウコの命を救うため、ゴキブリになって彼女を自宅から外に出す。それが転生ガチャの精霊さんからマサヨシに課せられたミッションだ。そして、それがクリアできれば、マサヨシは元の人間に戻れる。転生ガチャの精霊さんはそう断言したのだ。
転生ガチャの精霊さんが、終始自分のことをコケにしていることは、もちろんマサヨシも承知していた。もしかしたら、人間に戻れるというのも嘘かもしれないということも。それでもマサヨシは、精霊さんの言葉にすがるほかなかった。
(で、いつまでにショ…、彼女を家から追い出せばいいんだ?)
――それは……
と精霊さんが言いかけたとき、マサヨシの触覚が空気の流れの変化とわずかな音の振動を感じた。すると奥の部屋のドアが突然ガチャッと開く。
部屋の中から、アマノショウコ当の本人が一人、ふらっと出てきたのだった。
リンネローチ☆カプリッチョ ゴカンジョ @katai_unko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。リンネローチ☆カプリッチョの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます