25


「さて、どこから話をしようかしら…」


彩名はドリップしたコーヒーをちとせに手渡すと、ミルクと砂糖を加え静かにマドラーを滑らせるちとせを横目にブラックのコーヒーを飲みながらゆっくり話し始めた。


「結論から先に言うわね、あなたの感じた疑問は的をえていた…まりえの旦那さんと娘はちとせのご両親を事故に巻き込んだ車に乗っていた親子で間違いないわ」


「そう…ですか…」


「これがどれくらい奇跡的な確率で起こった出来事かはわからないけれど、あの事故で家族を失って鬱状態になったまりえと、同じく両親を失ってPTSDを発症した貴方が後々になって受診した病院がたまたま同じだったのよ、応対した医師は南原唯と言う精神科医よ」


「南原…唯…」


「貴方は恐らく覚えてはいないでしょうけれど、会っているのよ?ご両親が診察の相談で大学病院を訪れた時に一度だけ」


「そうなんですか、私全然…」


「無理もないわ、貴方はまだ10かそこらの子供だったし、あの時はまるで人形の様だったもの…あの頃まりえは純粋に唯先生の患者で、診察やカウンセリングに来るたびに研修医として同席していた私と顔を合わせていたの、歳が近かったせいもあるかとは思うけれど、私たちは次第に打ち解けて、患者と研修医と言う括りを越えて友人と呼べる関係を築いたわ…私が彼女に惹かれた理由は他にもあるけれど…とりあえず今は置いておくわね…そうこうして距離が近づくうちに、まりえは先生にも話さない様な話を私にするようになった、とにかく彼女は迷っていたの、究極の二択と言える部分で」


「二択?」


「そう、一つは【家族の後を追って自殺する】事、もう一つの選択肢は【天国にいる家族に胸をはって会いにいける理由を見つけてから自殺する】事…」


「そんな、そんなのって…」


「そうね、あまりにも悲しすぎる二択だと私も思う…でもね、まりえはすでに限界だったの、ただ愛する人に会いたい、そばにいたいと言う無垢な気持ちが、2人が居ない世界を生きるまりえの心を徐々に蝕んでいたのね…彼女よく言っていたわ、【死にたい理由は後から後から思い浮かぶのに、生きていたい理由が一つも思い浮かばない】って、私も初めは本当にまりえに前向きになって欲しいと考えていたけれど、この頃にはもうまりえの望みを無碍に否定する事はできなくなっていた…それぐらいまりえの死への渇望は私から見て真剣で純粋な愛に溢れていて、まるで祈りの様にみえたのよ…」


「そんな…」


「私はまりえと時間を共有するうちに、“まりえの祈りがどんな結末を迎えるのか“に強烈に興味を惹かれる様になった…彼女の事が大切で愛しているから彼女の死を“止められない“のか、学者としての好奇心から“止めようとしない“のか、自分でも良くわからなくなってきていた…そしてだんだんとその抵抗感も薄れていって、最後には“避けられない死なら、せめて彼女を救うにたる死じゃなければならない“という歪んだ希望すら抱いていた…今考えると、彼女にとって死ぬ事が救いだと言うのなら、その死に少しでも意味を持たせてあげたかったんだと思う…唯先生から貴方を紹介されたのが、丁度その頃だった」


「私?」


「そう、貴方よちとせ、貴方が両祖父母に連れられて病院を受診しに来て、当時まだ臨床研修医だった私を担当医として割り振ったのが唯先生。先生がどういうつもりで私を貴方の担当医にしたのかは今でもわからない、何か思うところがあった様な気もするし、そんなつもりは全然なかったのかもしれない…でも私はその時チャンスだと思ったの、“死ぬ理由“を探し続けて壊れていくまりえにとって事故被害者の遺族である貴方と引き合わせる事は大きな免罪符になるかもしれない、そう思ったわ…私はあえて何も告げずに、貴方とまりえを引き合わせた。精神医学の点で見てそれは2人に良い作用をもたらしたわ、貴方は私やまりえに対して少しづつではあったけれど心を開き始めていたし、またまりえも貴方に失った子供の面影を重ねて愛情に似た感情を持ち始めていた、私はと言えば結果的に2人が前向きに生きていけるならそれに越したことは無いなんて希望的な観測をしていたわね」


「3人で過ごしていたあの時間にそんな…」


ちとせは彩名に問いかけようとしたが途中で言葉が突っかかった。

思い当たったのだ、まりえが死ぬ少し前にあった出来事に。


「足りないところを補完して、お互いを補いながら続けていたこの生活もそう長くは続かなかった、彼女は見つけてしまったのよ、自分以外の誰かの為の死を…きっかけは皮肉な事に貴方やまりえの大切な人を奪ったクリスマスだったわ、覚えているかしら?」


「私のせいで…」


「別に貴方のせいではないわよ…あの日クリスマスプレゼントは要らないと言ったちとせに驚いたまりえは、“なぜ要らないか“を貴方に問いかけたじゃない?、普段あまり自分の事を喋らない貴方はその理由を饒舌に喋り始めた、きっと誰かに話したかったのね、幼い貴方も色々と限界だったんじゃないかと今は思うわ…これがきっかけでまりえははからずも貴方が旦那さんが起こした交通事故の被害者遺族だと言う事を知ってしまった、その後の事は貴方が想像している通りね、結局彼女が選んだ免罪符の形は【贖罪】だったのよ、貴方に対してのね」


「望んでない…そんな事私望んでないです…」


「自分に起因する他者の行動が自分の望む結果である事なんて決して多くはないわ、今の貴方以上にまりえの旦那さんや娘さんがまりえに何か言えたとしたら、【そんな事望んでいない】と言うのじゃないかしら?まりえはね、まりえがしたい様にしたいことをしたのよ、自分で選んでね…どんなに納得行かなくても、私たちは受け入れるしかないんだわ、彼女の選択が産んだ結果をね」


「それで救われたんでしょうか…まりえ姉さんは…」


「どうかしら?私はまりえは“救われた“んだと思っているわ、救いの形が、彼女にとって“終わり“だったと言うだけの話なのよ、そして彼女は誰にもそれについての同意を求めていなかった、彼女が救われたと思うのなら、後から誰が何を言おうが思おうが、彼女は救われたんじゃ無いかしら?精神科医が言うべきことでは無いかと思うけれど、人の心のあり方の究極みたいな物はそういう事なんだと私は彼女から教わったわ」


彩名は入れ直したコーヒーに手を伸ばすと小さく息を吐き出した。

ちとせにはそれがため息なのかコーヒーを冷まそうとしたものなのか、判断できなかった。


「私も、救われるんでしょうか?」


「救われる?ちとせが?」


「はい、もしも死んでしまえば、終わりにしてしまえば、私が抱え続けて来たものから解放されるのでしょうか…」


「何を言い出すのかと思えば…貴方死にたいと思っているの?」


「わかりません、でもさっきのまりえ姉さんが言っていたって言う【死にたい理由はいくらでも出て来るのに、生きている理由が見当たらない】って話は、びっくりするくらい自然に受け入れる事が出来ました…両親が突然死んだあの日から、漠然と両親の死は自分のせいだと思いながら今日まで生きて来ました、罪悪感と言えば良いんでしょうか…あの日"私が両親にわがままを言わなければ両親は死ななかったんじゃないか"と言う考えを忘れられた事はありません、そのせいなのか私には自主性みたいな物がないんです、“どうしてもこうしたい“とか、“絶対にこうじゃないと嫌“みたいな感情が…どこかどうでもいいと言うか、自分の意思を通すのが怖い自分がいます、それは生きる事と死ぬことに対する価値観にも当てはまる気がするんです、死にたいと言うより生きていても死んでいてもいいと言うか…」


「世の中を生きるほとんどの人間は生きている事に理由づけなんてしないわ、死ぬ事に対してだってそう、なんとなく死にたくないから生きている人なんてゴロゴロしてるわよ、自主性の欠如って自殺願望に繋がるのかしら?……面白いテーマだとは思うけれど…」


「話を聞いてようやく答えが出たと言うか、しっくり来たと言うか…私はあの日から半分死んでいたんですね…だからまりえ姉さんと居ると心地よかったのかもしれません、一緒だったんですよ、そう言う意味で私たち…」


両親を失った日以降、ちとせは穏やかな日常を家族や友人と過ごしながら、それでもどこか同世代の人間達とは異なる自分を感じていた…まるで【病名が判明しない病気に苦しんでいる】様な出口のない漠然とした喪質感を抱え続ける状態が続いていたのだ。


【失った人に会いたいのはまりえ姉さんだけじゃない…それに私を救うためにまりえ姉さんが死んだと言うなら、まりえ姉さんの命の対価になった私の罪はどうしたら赦されるの?】


「もしも貴方が死にたいと言うなら、やっぱり私はそれを止めないわ、これはまりえにも言った事だけど、貴方の人生は貴方の物よ好きにしなさい、ただ貴方はまだ若い…死ぬなら精一杯やってそれでも死にたければ死ねば良いんじゃないかしら…」


「精一杯…」


「貴方が望んだ事では無いかもしれないけれど、貴方のその命には余りに多くの祈りや願い、命が重ねられているわ、まりえだけじゃない、貴方のご両親、まりえの家族、貴方の保護者である両父母、多くの人の思いが重なり合って今の貴方は生きているの、それを無碍にして人生を終わらせるのはあまりに救われないじゃない…」


「私は生きるべきなんですか?」


「それを決めるのは他の誰でもない貴方よ」


【しっかり考えて、後悔がないように決めなさい、時間はいくらかけても構わないのだから】


彩名はそう言い残すとちとせを送り出し、次の診療準備を始めた。


ちとせがクリニックを出ると、外では春の暖かい雨が、雑多な裏通りのアスファルトを叩いていた。

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