21-2

「ちとせ、夕ご飯に何か食べたい物はある?」


「えー別になんでもいいよ!今日はクリスマスだから、クリスマスのご飯でしょ?私おばあちゃんの作るご飯好き!」


「はいはい、じゃぁちとせの大好きな物、沢山作ろうね」


2010年の12月24日、もうぼちぼち日も傾き出しそうと言う夕暮れ前、結城ちとせは祖母の家で両親の帰りを心待ちにしていた。

この日、総合商社に務めるちとせの両親の仕事は年末にも関わらず多忙を極め、愛する愛娘の為に必死で時間を捻出し、やっとのことで勝ち取った有休を利用して、なんとか家族の時間を迎える事が出来るはずだった。


事の始まりは朝まで遡る事になる。

祖父母を含む家族皆でクリスマスを祝おうと迎えた24日、混み合う電車を乗り継いで祖母の実家にようやく到着したのも束の間、ちとせの父である【結城翔太】と母である【結城みなみ】の両親2人は、ちとせの何気ない一言で頭を悩ませる事になる。


【クリスマスはおっきいケーキを食べるんだよね?私すごく楽しみ!】


ちとせの弾けんばかりの笑顔を目の当たりにした翔太とみなみの2人は【しまった…】と心の中で同時に呟いた、日々の仕事に忙殺されていた彼らは【クリスマスプレゼントの確保】に夢中になるあまり、ケーキの事をすっかり失念していたのだ。


「ねぇ!ちぃちゃん?ケーキは明日にしたらどうかしら?」


「確かに!今日はお婆ちゃんの作ったご馳走を沢山食べる予定だからな!お腹がいっぱいになってしまうかもしれない、ケーキは明日の方が美味しく食べられるかもしれないよ?」


「えークリスマスイブはケーキを食べるんだよ?ちとせにはケーキないの?」


みるみる笑顔を曇らせていく愛娘に2人は顔を見合わせて、諦めた様に微笑むと、翔太は【そんな訳ないじゃ無いか、ちとせが大好きな苺が沢山乗ったケーキを父さんと母さんが見つけてくるよ!】と声をかけ、優しくちとせを抱きしめた。


そして、それがちとせとちとせの両親が交わした最後の会話になってしまった。


ちとせのお気に入りのショートケーキを購入する為に2人は覚悟を決めて世田谷まで足を伸ばす事にした。駅近くの商業施設はクリスマスを祝う為か正月に向けた準備なのか、食料品を買い求める人々で溢れかえり、2人はやっとの思いでお目当てのケーキを購入すると、一安心して実家への帰路を急いだ。


駅から少し離れた住宅街の一角にあるケーキ屋を後にして、駅に向けて歩き始めた夫婦の心はとても満たされていた。不妊治療の末ようやく授かった愛娘は2人の愛を一身に受けながらすくすくと成長し、幼くして周りの人間や友人を慮れる優しい子に育ってくれた。


最近は時々【将来彼氏でも連れてきたらどうしよう】とあらぬ想像をして肩を落とす夫に対して、【いいじゃない、ちとせを大切にしてくれる人なら】と妻が諭す様なやりとりも増えた。他所から見たら余りにも滑稽な2人の茶番劇は、彼らにとっては至極大真面目な問題で、2人にとってちとせは光で、希望であった。

人の親になった事が有る人にしか分かり得ない事かもしれないが、2人は心の底から【ちとせが幸せに成長してくれれば他には何も望まない】とそう思えたのだ、そしてそれは2人にとってとても誇らしい愛の形だった。


しかしそんな2人を無情にも悲劇が襲う事になる、大通りに入り、後は駅まで一直線という所に差し掛かった2人を目がけてガードレールを突き破った白いセダンが突っ込んで来たのだ。


良く事故に遭う時や命の危機に瀕した際は時間がスローモーションになると言うが、正直神様はそれほど多くの時間を2人に与えてはくれなかった。


2人をはねたセダンはそのまま歩道を突っ切り、目の前の雑貨屋に突き刺さる様に突っ込むと、グルリと横転してその動きを止めた…駅から離れたこの場所は幸いにして人の通りもまばらではあったが、それでもあちこちから悲鳴や怒号が飛び交った。


みなみは霞んでいく意識の中で隣で血を流してピクリとも動かなくなった翔太をみつけ、瞬間的に自分が事故に巻き込まれたのだと悟った、どうにか夫に手を伸ばそうとするが、自分の体はまるで鉛かの様に重く、辺りが暗くなるに連れて体が熱を失っていく感覚が【訪れる死】を彼女に突きつけていく、わずかに動く目を前に向けると、愛する娘の為に購入したショートケーキが紙箱から崩れる様に溢れ落ち、無惨にもその原型を忘れ、地面に飛び散っていた。


【ちとせ、ごめんね、ケーキ…ダメになっちゃった…もっともっと貴方を抱きしめて、キスをしてあげたかったな…ごめんね…ちとせ…お母さん、ごめんね…】


声にならない言葉を必死に紡ごうとするみなみの口は虚しくパクパクと開閉するばかりで、結局言葉を紡ぐ事は出来ないまま、動く事を辞めた。


みなみの視界が完全に真っ暗になるのと同調するかの様に横転した車が小さな火を灯し、それは瞬く間に大きな炎となって車を飲み込んでいった、みなみは凍える様な寒さの中で二律背反する不思議な暖かさを感じつつ、短すぎるその人生を終えた、絶命した彼女の顔はその血まみれの体には似つかわしく無い、聖母の様な優しさを宿した温かい笑顔だった。


事態が収拾し、交通封鎖が解かれるまでには日が傾き始めるまでの時間を要し、実家で帰宅を心待ちにしていたちとせと祖父母が警察から連絡を受けたのは18:00を回ろうかと言うタイミングだった。

祖母は青ざめた顔でちとせの肩を抱きしめ、【ちとせ、よく聞いて、お父さんとお母さんね、事故にあったらしいの…これから一緒に病院にいくのよ】と声を震わせながらちとせに説明したが、涙ながらにちとせを抱きしめる祖母の言うことを幼いちとせはいまいち理解出来ず、【お父さんとお母さんの帰りはまだかな?遅くなるのかな?】と考えて頬を膨らませて見せた。


直前までちとせが見ていたシュールな女児向けのテレビアニメが、間の抜けたBGMを流しながら真っ暗なリビングに映し出されたままになっている…その明かりは家主が出払い、日が落ち切った結城家のリビングを弱々しく、青白く、ぼんやりと照らし出していた。



祖父母に手を引かれ訪れた病院で、ちとせは初めてなにか良くない事が起こったんだろうと、漠然と理解し始めた。

いつもちとせに優しい笑顔を向けると祖父母の顔は険しく、なんだか少し怖く感じる…

病院の地下にある白い廊下を進むと少し先から女の人の叫び声が聞こえてきた。

ちとせにはそれが何なのか良くわからなかったが、その部屋よりも少し手前の部屋に入る様に促されたので良かったなとか、そんな事を考えていた。

部屋には真っ白なベッドがあり、医者が寝かされた人の顔の部分から白い布を取り去ると、そこには見慣れた父と母が横たわっていた。

祖父と祖母は出来るだけ声を殺してボロボロと涙を流し続け、ちとせを強く抱きしめる、多分祖父母が声を押し殺して居るのは自分の為なんだろうな…ちとせにはなんとなくそれが理解出来て、何か悪い事をしている様で不安になった





【お父さんとお母さんは死んじゃったんだ】


少し足が震えた、理由はわからない、怖かったのかもしれない…


【もう会えないんだ】


怖い?何が怖い?死んじゃうこと?


【お話出来ないし、本も読んで貰えない、頭も撫でてくれない、抱きしめてくれない】


死ぬって何?なぜおじいちゃんもおばあちゃんもこんなにも弱々しく震えながら泣いているんだろう?


【なんでしんじゃったの?】


私は置いてけぼりなの?お父さんとお母さんはどこにいくの?


【私のせいだ…私がケーキが無いと嫌だなんて言ったから…】





突然ちとせの目からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。

初めちとせは何故自分が涙を流して居るのか良くわからなかったが、直ぐに自分のせいで両親が死んだからだと気がついた。

流れ出る涙はまるで締め切るのを忘れた蛇口の様に止まると言う事を忘れ、後から後からこぼれ落ちてちとせの服を濡らしていく、強く噛み締めた下唇がわなわなと震えた、嗚咽を殺して咽び泣く祖父と祖母を見て、なぜかちとせも大声を出して泣いてはいけないと言う気がしたからだ。


ちいさな体で握り込む拳は白く鬱血し、体と共に小刻みに震えている。


ちとせは少しずつ気が遠くなって、パタンと小さな音をたてて後ろから仰向けに倒れ込んだ。


それを見た祖父母の2人も糸が切れた人形の様に力なく倒れ込み、床の上を這いつくばりながら声を出して泣いた。気を失て仰向けに倒れるちとせの固く閉じられた瞳からは、なおも小さな頬にそぐわない大粒の涙が滑り落ちていた。

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