21−1
「彩名ちゃん、ごめんね、私、もう疲れちゃった…」
小津まりえは大学病院の中庭に備え付けられたベンチの上で両足を抱え込んで体育座りの様な姿勢をしながら呟いた。
「そう…」
隣に腰掛ける二階堂彩名は前を見つめたまま静かに相槌を打つ。
二人の間に二人にしか感じ得ない形容し難い時間が流れていた、そしてそれは二人にとってなぜか妙に落ち着く時間だった。
「もうずっと、同じことばかり考えているの、来る日も来る日も、寝ても覚めても…」
「どんな?」
「会いたいいって、ただそれだけ…」
「……」
彩名は迷っていた、そして考えていた、小津まりえにとって一番幸福な決断とはなんなのか、自分はこの数少ないの友人の為に一体何ができるのか…
「いろんな人がね、励ましてくれるの、大丈夫だよって、頑張ったねって…凄く嬉しいし、有り難い事だなって思うのに、なんでかな、それでも続けていこうと思えないんだぁ…立ち上がって前を向く気にどうしてもならないんだよ…」
「貴方はどうしたいの?」
「終わりにしたい、二人のいる所に行きたい…」
「二人のいる所…ね…私は死後の世界は信じていないわ、人は生まれ落ちて、死んだらただ終わるだけだと思う、天国にしろ地獄にしろ、未来永劫続く【永遠】なんて、ゾッとするもの」
「彩名ちゃんらしいね」
微笑みかけるまりえの表情は優しさの中に何処か息苦しさを含んだ痛々しい物だった。
彩名はこの笑顔を向けられる度に何度も考えたが、どんな言葉がその影を振り払えるのか、結局わからずにいる。
「結局、どんな悩みも、思いも、願いも、苦しみも、出ない結論と共に抱え込んで歩んでいくしかない、生きていくってそういう事だと思うの」
「そうやって全て抱え込んで、抱え込んだ荷物が重すぎて苦しくても、潰れそうでも、それでも生きていくべき?」
「どうかしら、わからないわね…私は貴方が居なくなってしまったら悲しいけれど、貴方が悲しみに潰れそうになりながら生きているのも、やっぱり悲しいもの…まりえ、貴方が歩む貴方の人生は、当たり前の事だけど貴方の物だわ、どうするのが正解か、どうするべきか、その答えは貴方にしか出せないと思う」
「そうかな…そうだよね…」
「貴方が死にたいと言うのなら、多分私はそれを止めないわ、私の選択が私や貴方以外の他人から見て合っているか間違っているかはわからないけれど、それでも私は貴方の人生の終始は貴方の希望に沿うべきだと思うから…」
「…多分ね、旦那さんと娘が今の私を見たら、【いつまでそうしているんだ?頑張れ!立ち上がれ】ってそう言うと思うの、だからきっと、私が私を終わらせる事が二人の望む未来にはなり得ないって事は私にもわかる、だから今日まで何も出来ないまま、変わらないまま、それでも生きてきた、私が死んで二人に会うことが出来ても、どこか後ろめたい気がして…」
「そうね、それはそうかもしれないわ…」
「せめて誰かの為に死にたいな…私の終わりが誰かの救いになれば良いのに…そうしたら、私、二人に胸をはって会いにいけるのに…ごめん、変な事言ってるよね?私…」
「気にする事はないわ、貴方は大概いつも変だもの」
「あはは、だね…」
ここ数ヶ月、彩名は1つの可能性について考えていた、考えていたがその【考え】を試行する事はあまりにも非人道的な気がして…医師として、いや、人としての倫理に触れている気がして実行出来ずにいた。
このまま放っておいたら近い将来必ずまりえの糸は切れてしまう…彩名にはそれが痛いほど良くわかっていた、彼女にとって、今の現状が生きるのに耐え得ない事はおそらく誰にも責められる物ではない気がしたし、やはり何度考えてみても、それがまりえの願いなら、止めるべきでは無い気がした。
「まりえ、あのね、会ってみたらどうかと思う人がいるの…」
キョトンとした目でこちらを見つめ返すまりえに彩名は【ごめんなさい】と心の中で謝った、それはまりえに対してなのか、学者としての興味を優先した事に対してなのか、引き合いに出される事になる心に傷を負った少女に対してなのか、自分でも良くわからなかった。ただ、二人を引き合わせることは確実に私の乾きを潤すのに十分な結果を出してくれる…彩名はそんな根拠のない期待に胸を膨らませ、同時にその罪悪感からいたたまれない気持ちになった。
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数日後、顔を合わせる事になった二人が同じ交通事故の加害者遺族と被害者遺族だと知るのは彩名だけで、小津まりえと結城ちとせの両名はお互いの背景を何一つ知らないままその日を迎える事となった。
【そういえば、私が結城ちとせと知り合ったのは唯先生の手引きだった…、まりえもまた唯先生の患者…唯先生はこの二人に何か思う所があったのだろうか…私が結城ちとせと小津まりえに何を見出すかをテストした?引き合わせるか否か……まさかね…】
彩名は少し考えて、唯ならばあながちあり得ない話ではないと思い、別にそれでも構わないと覚悟を決めた。
「こんにちわ、ちとせちゃん、お姉ちゃんはまりえって言うの、二階堂先生のお友達だよ、宜しくね?」
「……」
彩名の予想通り、ちとせは彩名の背中に隠れて様子を伺っている。
「ちとせちゃん、このまりえお姉さんもね、ちとせちゃんと同じで、交通事故で大切な人を亡くしてるの、心に傷を持った辛い状態なのよ、今は緊張しているだろうけど、色々な事をお話してみたらどうかしら?私はきっと二人は仲良くなれると思うわ」
「うん」
諭す彩名にちとせは小さく頷いたがそれ以降積極的にまりえと話そうとはしなかった。
結局ちとせのカウンセリングの時間にまりえは毎回同席する様になった、カウンセリング中の時間の使い方には特に大きな変化は無く、各自が思い思いの時間を自由に過ごすスタンスは継続していた。
カウンセリングを始めた時程では無いが、やはりちとせの口数は少なく、まりえも無理に話そうとはしなかった。
結局、変化らしい変化は彩名とちとせが過ごしていた四人がけの赤いソファーが、【やや窮屈】になった事くらいだったが、彩名には両者の心理が少しずつ変化していくのが手に取るように理解できた。
ある日、まりえがカウンセリングルーム内にあったシクラメンの鉢植えに水をやろうとして、手を滑らせて鉢を割ってしまうと言うアクシデントがあった、当の本人のまりえは【あら、変えになる鉢はあったかしら…】などと漏らしながら割れた陶器の鉢を片付けていたがその際にちとせが【大丈夫?】と声をかけた。
まりえは少し驚いた様子だったが【大丈夫よありがとう】と直ぐに微笑んでちとせの頭をやさしく撫で始めた、気恥ずかしそうに目を瞑るちとせと失った物を取り戻していくようなまりえの様子に、彩名は【よかった】と安堵した。
失った痛みを共有する二人…幼な子を失った母と、両親を失った少女はお互いの痛みに寄り添いながら、撚り合わせる様に編まれて行く弱々しい2本の細い糸の様に、確実にその弱さを補完し、関係を深めていっていた。
十二月も半ばに差し掛かり、年内のカウンセリングも数える所後数回となった頃、まりえがちとせにクリスマスに何か欲しいものはないかと問いかけた。
しかしちとせは考えるそぶりも見せず【私は何も要らない】と首を横に振って視線を下げる。
普通この歳の頃の子供なら、間をおかず欲しいものの一つや二つは出てくる物だっと思っていた彩名とまりえは二人で顔を見合わせた。
「ちとせちゃん、遠慮しなくていいのよ?欲しい物、言ってみて?きっとサンタさんが持ってきてくれるわ?」
「まりえお姉ちゃん、サンタさんさんていないんだよ?、私はいいの、何にも要らない」
「そんな…ねぇ彩名ちゃんどうしよう…」
「どうって…」
この時彩名は、昔唯に【優秀過ぎる教え子も考えもの】と言われたのを思い出していた。
成程…こう言うことか…ちとせは身の上による所なのか、妙に子供らしくないと言うか、聡い所がある子供だったが、彼女がサンタクロースを否定するのは、それが両親を奪った物として深く印象づけられているからなのだろうか…
どうにしろ、子供は子供らしくあって欲しい物だなと、彩名は妙に納得して次の機会があれば唯に対してきちんと“若輩らしく“接してみようと思った。
「嫌いなの?クリスマス」
「………」
「お父さんとお母さんが死んじゃった日だから?」
彩名は初めてちとせに少し踏み込んだ質問をした、単純に良い機会だと思ったし、ここを避けてここより深いちとせの心に踏み込む事は出来ないと考えたからだ、まりえの前でこの質問をする事そのものが、もしかしたら大きな間違いであった可能性は否定できないが、彩名の雑念とは裏腹にちとせゆっくりと口を開き、辿々しく話を始めた。
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