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「一人、君に任せてみようと思っている患者がいるんだよね」
唐突に南原唯から話を切り出された二階堂彩名は少々身構えた。
唯が突然思いついた様に始める物事は往々にしてろくなことではなかったからだ。
「先生の担当患者さんですか?」
「んにゃ、違うよ、資料には目を通したけどね、私は診察もカウンセリングもしてない、あーでも保護者に治療の内容っていうか、簡単な説明含めて本人とも少し話たけど、あれはまぁ、なんつーか医療行為じゃないし、ノーカンって事で…」
「私、臨床研修医ですけど…」
「免許持ってるし!診察もしてるじゃん!患者さんから見たら彩名ちゃんも立派な先生だよ!」
「そういう事が言いたい訳じゃないのですけれど…」
「彩名ちゃんが受け持ってるクランケのカルテ目を通したけどさー、やっぱ凄いよ君、診察と処置に一切の無駄がない、無駄がなさすぎて胡散臭い位だね、患者の心が直接覗けているんじゃないかと思う、あ、もしかして覗けちゃってる?シックスセンス的な?あはははは!」
「先生…」
「冗談冗談、とまぁ私は彩名ちゃんの医師としての能力と才能を既に十分認めているんだよ」
南原唯という人間は本当に底がしれない、褒められたはずの彩名は逆に自分か師事する精神科医としての【唯の才能】に驚愕した。
「あの、どんな患者さんなんですか?」
正直、彩名は研修医として精神医学に携わっていく中で、想像していた医療と、その実像の乖離に辟易としていた。
この世界の人間は安易に精神を病みすぎる、しかし彩名が考える本当の意味で精神が壊れている人間はそうは多くない…
彩名は精神医療の現場とは【壊れてしまった患者】にメスを入れて行く…それこそ狂気と平静が凌ぎを削る極限状態の最前線だと思っていた。
【もっと見たい、深くて暗い部分まで】
人が壊れるか壊れないかのボーダーに興味があった。限界まで自信を追い詰めてしまう真面目すぎる狂人は、その揺れる狂気に何を見るのか…どこか他人を、世界を、冷めた目で捉えてしまう彩名にとってそれらは数少ない胸を突き動かす衝動だった。
だが現実はどうか…精神的不調を訴える人間達は、呆れる程どうにでもなりそうな【自称どうしようもない問題】を抱え、無気力や不安を訴えながら、誰も彼も【許し】と【肯定】を求めて診察を受けにくる。
別に心を痛ませる理由が、世界の存亡に関わる事や天変地異の爪痕であってしかるべきだと思っている訳じゃない…彩名にとって人が心を蝕む元凶は道に転がっている石くらいにどうでも良いことだった、ただ患者がその元凶と本気で向き合っているか、本当にどうにも出来ない程に患者の人間性を圧迫する存在なのかが彼女の興味を掻き立てるか否かを二分していた。
とはいえ彩名は医師である、治療を求めてくる患者と、彩名が興味を惹かれる症例がいかにかけ離れていても、医療行為を行うか否かには何の関係性も無い、興味がない病気は看たくないので帰ってくださいと言う訳には行かないのだ…兎にも角にも、患者には一人一人、患者が欲しいであろう言葉で助言を与え、完治に至るまでそれを見守り支えていく、研修医に有り得ざる華々しい治療実績と反して、彩名はどんどん自身が熱を失って、乾いて行くのを自覚していた。
「どういった患者さんかだって?ちょっと冗談でしょ?彩名ちゃん、患者をサルベージすんのも精神科医の仕事よ、存分に掘ってみなよ、底なしだぜ?」
唯がいたずらをした子供の様に片方の口角を吊り上げる。
南原唯に【底なし】と言わしめる精神の持ち主…
また何かを押し付けられる…そう考えていた彩名だったが、唯の不適な笑顔に自分の心拍がほんの少し上昇したのを自覚した。
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結論から言えば唯の紹介で引き合わされた少女が放つ不安定な感情は、彩名の琴線をコレでもかと刺激した。
目は熱を持たず、鈍く濁り、それでいて肩からピンと伸ばされた腕の先で鬱血するほど強く握られた拳が、他人が自分に干渉してくるのを拒絶している意志をひしひしと周囲にと告げている。
10もソコソコの小さな少女が放つ心情の色は、大人である彩名の背筋を小指でそっとなぞるのに十分な仄暗さを持ち合わせていた。
唯から患者の紹介を受けて数ヶ月後、彩名は初めてこの小さな患者と顔を合わせていた、患者の名前は【結城ちとせ】、数年前に事故で両親を亡くしそれが原因で塞ぎ込んでしまったらしく、事故後身元を引き受ける事になった祖父母が、PTSDの緩和を目的として診察を希望したと言う経緯だった。
「こんにちわ、ちとせちゃん、私の名前は二階堂彩名、心のお医者さんをしているの、何か私にちとせちゃんの力にれる事はあるかしら?」
彩名にとって小児患者の診察は初めての事だった、色々考えを巡らせたが、言葉遣いに留意しつつ、通常の医療方針で進めていく事にした。
初手を切り出した彩名に対してちとせからのレスポンスは何一つ無い。
【コレは…下手したら呑まれるな…】
ちとせの瞳を覗きながら彩名はそう思った、この小さな瞳は敵意も好意も僅かな期待も写していない、あるのは驚くほどの無関心と拒絶だ、大人だってなかなかこんな目を持ち合わせている患者は居ない。
「ちとせちゃん、好きな食べ物や飲み物、TV番組でもいいの、お姉さんに教えてくれないかしら?私はちとせちゃんの事が知りたいわ?」
なんでもいい、とにかく会話を成立させない事にはカウンセリングどころでは無い、口を聞かない患者とはこうまで難しい物なのか…
可能な限り同じ目線で、対等な立ち位置で、相手の欲しがる何かを探す…
それでも少女は口を開かない、だが、しかし…これは…
【本当に私も大概ね…】
彩名は上手く進まない診察をどこか楽しんでいる自分に気がついた。
我ながら歪んでいると思う、師である唯は私のどこを見て【直線的】だと形容したのだろう…
ある程度長期戦になる事を覚悟した彩名はカウンセリングルームの端に備え付けられたコーヒーメーカーでコーヒーをドリップし始める。
カウンセリングルームにコーヒーメーカーを置いているのは単純にコーヒーを飲む用途の他に、コーヒーをドリップする時の香りが、個人差はあれど人の心を軟化させる事を狙ってでもあった。
これは唯が始めた事だが、彩名は一定以上の効果を肌で感じていた。
【焦っても仕方がない…か…】
部屋に立ち込めるコーヒの香りと共にその日の診察はなんら手応えを得られず終了とする事にした。
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結局、ちとせが初めて彩名に口を聞いたのは初回から数えて五回目のカウンセリングの時であった。
初日以降、彩名はちとせに何かを問いただすことを辞め、【こんにちわ】と挨拶をして隣に座り、ただ二人でカウンセリングが終わるまでの時間を過ごす事にしていた、カウンセリングの時間は従来の患者の二倍である二時間に設定し、この間彩名は本を読むのがルーティンになっていた。正直治療は遅々として進展しなかったが、彩名は不思議とこの時間がさして嫌いではなかった、まるで進展していないのに、無駄なことをしている気がしなかったのだ。
「お父さんが好きだった香り」
いつもの様にその日読むための本を用意して、コーヒーメーカーでコーヒーをドリップしている最中に、彩名は突然背後から声がした事に気がついた。
一瞬耳を疑ったが間違いない、声の主は結城ちとせだ
「お父さん…あぁ、コーヒーが好きだったのね?」
彩名が問いかけるとちとせが小さく頷いた。
「ちとせちゃんも飲んでみる?」
「苦いのは嫌い」
「そう…いずれ貴方も好きになるわ、きっと」
ここで彩名はちとせとの関係構築を焦らなかった、【その方が良い】事が、なぜか彩名にはわかっていた。
二人の初めての会話は1分を待たずに終わり、部屋にはいつも通り時計が秒針を刻む音だけがコツコツと小さく響いている。
【やっぱり悪くはないな】そんな事を考えながら、彩名は二杯目のコーヒをドリップし始め、結局その日も二人はベルベットのソファーに腰掛けて終了時間までを過ごした。
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