噛み合う歯車と止まる時間

19

とある大学病院の屋上に一人の女性が佇んでいる。優しい風にフレアしたワンピースの裾をはためかせ、まとめ上げた髪から溢れ出た前髪を右手でそっと押さえると、彼女は風の吹いてきた方角をしばらくの間見つめ続けた。


彼女は思い立った様に緑色のフェンスを乗り越え、建物の縁に腰を下ろすと、読みかけの本を開いて膝の上に乗せる。


本のタイトルはなんだったか…そう、夫が好きだった作家の最新作…


何日も何日もこの本を開いては閉じて、開いては閉じていたが、内容は一向に頭に入ってこなかった。


そう言えば作家の名前すら思い出せない…


そもそもなぜハードカバーの重たいこの本を常に持ち歩いていたんだっけ?…彼女はそれすら良くわからなくなった自分が、なんだか可笑しくなって少し笑った。


とにかく無気力で、一日が長く、重苦しい…

色も音も無い、白と黒が交互に全てを覆い尽くす世界…

とてつもなく粘度が高い液体の中で、窒息しない程度、ギリギリの酸素を与えられながら、自分の意思とは違う方向へ気が遠くなるような遅さで揺蕩っていく…


夫と愛娘を失った小津まりえは、運命が音を立てて転げ落ちたあの日以降、そんな感覚を永遠と引きずり続けて、ただ死んでいないという一日を、来る日も来る日も繰り返していた。


苦しかった、解放されたかった、しかし彼女には、一体何が自分を解放しうるのか、自分では皆目検討がつかなかった。


誰かと顔を合わせる度に周りの人間がまりえの肩に手を添えて次々と言葉をかけてくれる。

【苦しかったね】【悲しかったね】【必ずこの先に良い事もあるよ】【いつか乗り越えられる時が来る】【時間が解決してくれる】

自分を思って、慈しんで、心から心配してくれる家族や友人の愛のある言葉達は、小津まりえにとって緩やかに締め上げられていく首に括られた真綿の様だった、なまじ本当に自分を想って掛けられる言葉だと理解できる故に、後ろめたさと不甲斐なさで吐き気すら覚える。


乗り越えられる訳が無い、時間が解決する訳がない…


もしも、本当に時間と共にこの悲しみが薄れていくのなら、この痛みを忘れていけるのなら、二人の死を乗り越えて前が向ける日が来るのなら、まりえにとってその【小津まりえ】は自分とは違う人間になっているとしか思えなかった。


【会いたい】


少しづつ人間性を失っていく日々を自覚しながら、輪郭がぼやけ、薄くなり、ついには透明になってしまうような感覚の中で、ただ一つの事を願い続けた。


その願いが、会いたいと言う欲求だけが、自分を自分たらしめている…そんな気がする…


何度目を閉じて、深呼吸をしてから目を開いても、風呂上がりに優しく頭を撫でながら髪を乾かしてくれる夫はもう居ない…悲しくて涙が溢れてしまう出来事が有っても肩を抱き寄せてはもらえない、言い争いの途中でなぜか突然おかしくなって、同時に笑い出してしまう時間はもう来ない、コーヒーを片手に冬の星々を見上げる時、身を寄せ合って暖を取ることももう出来ない…


眠れないよるを超えて眠りにつき、朝日と共に幾度目を覚ましても、何があろうとこの子のために頑張ろうと思わせてくれる娘はもう居ない、柔らかくて良い匂いのするあの頬も、生え揃わない細く弱々しいあの髪も、むちむちとして指を押し返してくるあの足も、もう二度と触れられない…


もしも神様なんてものが存在して、本当に乗り越えられる試練しか与えないと言うのなら、神とはどれだけ残酷な存在なのか…この試練はなんの為に私に与えられた物なのか、罰だと言うならせめて罪状を教えて欲しい…【ただ側に居たい】【ただ側に居てほしい】まりえは毎日、来る日も来る日も本当に毎日祈ったが、ついに神の返事を受け取る日は訪れず、気がつけば祈る事すらままならない程に空っぽになってしまった。


【誰か、私に終わる理由をくれないだろうか】


【慰めてくれなくて良い、励ましてくれなくて良い、ただ一言【死んでも良い】と労ってはくれないだろうか】


結局、まりえの頭の中で日々メビウスの輪の様に廻り続ける願いを聞き届けたのは、皮肉な事に神でも悪魔でも無く、一人の幼い少女だった。


二人が初めて顔を合わした時の事を思い出して、まりえは優しく目を閉じた。


あの日、少女がまりえを見る目はゾッとするほど光を失っていて、幼い声で放たれる怨嗟の声はまりえの心をとても軽くした。


【あぁ、そうか、【私の終わり】はこの子の救いになり得るんだ】


そう思った時、突然胸のつかえが取れたのだ、それは本当に長いこと忘れていた、幾年ぶりかの解放だった。


彼女は今どこで何を思っているのだろうか、願わくばこの結末が彼女の心をわずかでも癒す事になります様に…


さんざん祈り続け、反故にされてきたまりえは、この後に及んでもなお祈るのかと少し自分にうんざりした…


【結局私は弱い人間だったのかな?】


声に出されなかった疑問符にも、やはり神は答えない。


「さてと…」


そう言って腰を上げると着ていた白いワンピースについた砂をパンパンと払い落とし、本を胸に強く抱きしめる。


まりえはこの時初めて、父や母、妹の事を考えた


「ここ数年、本当に心配と迷惑をかけちゃったな…」


大きく前に踏み出した右足と、へりに残している左足が並行になろうとした瞬間、まりえの口から【ごめんね】と謝罪の言葉がこぼれ落ちた。程なく均衡を失ったその右足は大きく空を切って引力に従い始め、やがてまりえの体を引き寄せた。


ドンッと言う存外大きな音がして、地面に赤い花が咲く、しばらく広がり続けた真紅の花弁には、まりえの着ていた白いワンピースがゾッとする程良く映えた。

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