18

「彩名ちゃんさぁ…良いの?本当に…」


「ええ、良いんです、何度考えても、今私がしたい事はココにある気がするので、それに最初におすすめなさったのは先生ですよ?」


「頭良いのに、硬いよね、君は…」


大学病院の正門を出て程ない場所にあるコーヒーショップで唯と彩名は脚の長い背高の椅子に腰掛けながらコーヒーを飲んでいた。実用性をかけらも感じない小さな丸いテーブルには二つ、アイスコーヒーの入ったグラスが並んでいる。


最近日本に上陸したその外資系コーヒーチェーンが出来た時の盛況ぶりと言えば、それは凄まじく、半年近くはコーヒーを買うのも一苦労といった様相であったが、熱し易く冷め易い日本人の性に漏れる事なく、近頃は時間帯を選び、ソファー席にこだわらなければ腰を据える事が出来る程度には落ち着いていた。


「まぁ類い稀な才能はあると思うけどね、あーんまりお勧めしないけどなぁー」


唯は椅子に負けず劣らずスラリと伸びた見栄えの良い足を組み、踵を外した脱ぎかけのヒールを爪先で器用に上下にパタパタと揺らしながら、アイスコーヒのグラスに刺さった緑色のストローで中の氷をくるくると回している。


「今更そんな…先生はご自身が選択した職業に後悔があるのですか?」


「んにゃ、別に無いけど…日のあたる分野じゃ無いじゃん?心理学界隈ってさ…彩名ちゃん外科だろうが内科だろうが成功するだろうから…勿体無い気がしてね…」


「ユングやフロイト…業界外の人達に名を知られた精神分析医は沢山居るじゃ無いですか」


「いやいやいや、彼らを目標に据えるつもりなのかね…君は…」


「分不相応でしょうか…」


「そう言う事じゃなくてさ、なんか彩名ちゃんマジで心理学者として【その領域】まで到達しちゃそうで怖いわ」


「…?」


「精神分析ってジャンルはね、突出するとそれはもう他人から見たら気違いと区別がつかないんだよね、人の気持ちなんて、考察して分解して理解に至っても、社会的に見た恩恵なんて特にないの、同じ草分けで革新的な研究であっても外科のバチスタ手術とは違うんだよ、根本的に!」


「でも先生、私は誰かに感謝されたくて精神科医を目指す訳じゃありません」


「…あのさぁ、余計にぶっ飛んだ医者になり得るでしょそれ、誰かに感謝されたくて目指す医者の方が動機としちゃよっぽど健全だっての」


【はぁー】と言う唯の長いため息に呼応する様に二人のグラスの氷が同時にカランッと音を立てた、ぐっしょりと汗をかいたそのグラスがまるで自身の心情を映し出している様で、唯は少し吹き出した。


「まー良いんだけどね、彩名ちゃんの人生だから、彩名ちゃんの進みたい道を進みたいように進むのが良いと思うよ私は」


「はい、ありがとうございます、そうするつもりです」


「あんま優秀すぎる教え子ってのも可愛げないモンだね、こりゃ」


唯が頬杖をついてこどもの様に口を尖らせると【私、優秀なんでしょうか?】と彩名が問いかけた。


「優秀じゃない奴は優秀だって言われた時に疑問を持ったりしないもんさ、君は間違いなく優秀だよ!」


「優秀な方に優秀と言われるのは光栄ですね…」


「でもね…」


突然、唯が神妙な表情で彩名を見つめる。


「彩名ちゃんの優秀さは非常に危うい、言葉選びに困るけど、あえて大袈裟に表現すると君はそうだな、ヴェルナー・フォン・ブラウンになり得る資質を持ってる」


「私が?彼は航空力学者ですよね?」


「そう、彼が基礎理論を構築した液体を主燃料としたロケット工学は、20世紀の終わりにはついに人類を大気圏外に押し上げるに至った…、でもね、彼の理論を軸に開発研究されている数多のミサイルは、第二次大戦末期以降、一体何人の人間の命を奪ったかわからない…学者の研究ってのは用途を問わずいつだって純粋なんだ、まだ開けたことの無い箱を開けようとする動機に罪は無い、だけど、そのパンドラの箱を逆さまにして振ったって、最後に出てくる物が必ずしも【希望】だとは限らないんだ、人の深層心理ってのはその極みだと私は考えてる、人間はその本性に意識的であれ無意識的であれ、仮面を被せる事で生きていける…鬼が出るか蛇が出るか…触れた人間を蝕みかねないんだよ、人の心の秘めたる部分って奴はね…最終的にフロイトもユングも【壊れてしまった】事を我々は忘れちゃいけない」


「そういった意味においては私は多分…平気だと思います」


「お、言い切るじゃん」


【既に多少壊れている気がするので】と言いかけて、彩名は告げるのを辞めた


「私はさ、バグった心理をサルベージして研究する上で重要なのは帰ってくるべき場所だと思ってる」


「帰ってくるべき場所?」


「あんま難しく考えないで欲しいんだけど、家っていうかさ、心休まる場所?そんなんが凄く有難かったりするんだよ、この世界!私も家庭持ってみて思うけど、存外ありがたいもんだよ?パートナーの存在ってのは、彩名ちゃんも良い人見つけてさ、人並みな人間関係?の構築に勤しんでみたら?」


「うーん」


「どうかした?」


「私、多分男性にあまり興味が無いんですよね…」


唯は少し大袈裟に【げっ】と声を出すと、自分を自分で抱きしめる様にの胸の前で両腕を交差して見せる


「残念ですけど、マイノリティな趣向も持ち合わせて居ません」


「いやぁ、マジであり得るって思っちゃったよ、あははは!だってポイもん、ポイポイ!あはは!」


「…」


「んじゃーなんで興味ないのさ、彩名ちゃん可愛いのに、女の私からみても需要高そうだけど…脱がしたくなるのに声はかけづらいってジャンルだよね、君は!」


唯が整った顔立ちに不釣り合いな下衆な表情を浮かべつつ、手をわきゃわきゃと開閉させながら彩名に近づける。


「意味がわかりませんが…単純なSEXに関しては相手に規則性を持たせない様に選定して十数人と経験してみたんです、精神分析学とは切っても切り離せない物だと思っていたので…結論から言うと、行為の前後で特段私の心理に変化はありませんでした…嫌ではありませんでしたし、肉体的な快感はある程度得られましたけど、私にとってはそれだけでした…あ、試行対象の分母が足りない可能性は否定できませんが…」


「おいお前、そーゆートコだぞ…わかってんのかこの不良サイコパス天才ビッチは…」


「今、私は罵倒されたんでしょうか?」


「うんにゃ、心理学うんぬんより、人間性を叩きこむべきだったと反省してたとこ」


「…」


「私には時間がないからね」


「…??忙しくしすぎなんですよ、先生は…」


「ま、限りある人生な訳だし、したい事したいじゃん?余す事なくさ!」


そういって唯はいつもの様にケラケラと笑ってみせた。


「先生のそういう所、私好きですよ」


「そりゃどーも…そういえば、例の患者さんなんだけど」


「小津まりえの事でしょうか?」


「そうそう、小津さん、なんか懇意にしてるんだって?」


「懇意と呼べる程の物かどうかは分かりかねますけど…彼女とは時々顔を合わせてますよ、私達気が合うんです、多分」


「ふーん、気が合うねぇ…で、どうなの最近、私が受け持ってた時より安定してる?」


「何を持って安定とするかにもよりますけれど…そうですね、彼女の目標は一貫しています、引き金が引かれれば、間違いなく撃鉄は彼女の背中を押すでしょうね」


「止めないの?」


「状況にもよりますけれど…どうでしょう、多分止めない様な気がします」


「だと思った、荊の道だね、君の精神科医としての道は」


そこまで言うと唯はスマートホンの時計を一瞥し、椅子に掛けていた白衣を取るとふわっと翻して羽織る様に袖を通した。どうやら店を出るつもりらしい。


「そうでしょうか?」


「学者なんだよ彩名ちゃんは、根っからね、そしてその学問を追求する上で一番都合がいいから医師でいる…医者って肩書きがあくまで学者ありきなんだよなぁ…君はもしかしたら片足を突っ込んでるのかもしれないね」


「突っ込んでいる?」


席を立ち、返却口にグラスを返して出口に向かう唯に彩名が問いかける。


彼女は背中越しに片腕をあげ、手首をひらひらと振りながら


【ユングとかフロイトにさ】


と言い残し、別れの挨拶もそこそこにその場を後にした。


「構いませんよ、それでも…」


彩奈の口からこぼれた覚悟を決める様な、諦める様な短い言葉に、1つその場に残さてしまった彩名のコーヒーグラスの氷だけが、もう一度カランッと相槌を打った。

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