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【落ち着いて、今知りうる事を整理していくしかない…】


成宮雪乃は結城ちとせの実家から戻る道すがら、自身が運転する車の中で顔を顰めていた。


【とにかく間違いない事実を上げていこう…

私が姉の死の真相を追う上で重要な事…事の始まりは10年前の世田谷での交通事故、私の義理の兄にあたる【小津孝弘】と姪であるその娘、【小津しずな】が乗った車が何らかの運転操作を誤って歩道に侵入、その際通行人である【結城ちとせの両親】をはね、路面店に突っ込む形で横転・炎上、この事故で上記4名は即死に近い形で死亡。

ついで私の姉である小津まりえが事故のショックから精神疾患に陥り通院、治療を開始、数年後、グループディスカッションの場として通っていた大学病院の屋上から投身自殺…

その際まりえのメンタルケアを担当していた医師が【南原唯】、時を同じくして南原唯は自身のメンタルクリニック【南原心療内科】を開院、大学病院の医師と並行してクリニックの院長と言うキャリアをスタートさせる。

そして最近、10年前に【小津親子】が運転する車に轢かれて犠牲になった【結城夫妻】の娘、【結城ちとせ】が新宿の雑居ビルから投身自殺…

その初期捜査中に【小津まりえ】が通院していた【南原心療内科】に【結城ちとせ】も通院履歴がある事が判明…姉の死の真相に関与している可能性がある【南原唯】を訪ねるべく【南原心療内科】の院長の情報を得ようとするも、現院長は【南原唯ではない全くの別人】と判明する…】


【どうなってる?訳がわからない…】


雪乃は知りうる情報を羅列する事で余計に事態が把握出来なくなる気がした。


雪乃にとって想定外の事が多すぎるのだ、たまたま自殺の初期捜査に立ち会った結城ちとせと自分の姉家族が10年前の事故で関連性を持っていたと言う可能性は如何程の物だろうか、世間は狭いというが、天文学的な確率なのではないかと思える。

しかし、雪乃が結城ちとせの自死に介入した事は全くの偶然だ、署内の誰が検分に向かっていてもおかしくはなかったし、そもそも本来所轄で終わる仕事に首を突っ込んだのも雪乃自身だ…

それだけではない、姉・まりえと結城ちとせは同じ心療内科でメンタルケアを受けていた経歴があり、両者ともに自殺している…

ここまで来ると第三者の意思が介入していないと思う方が不自然だ、もし本当に偶然の産物なのだとしたら、神は仕事をしすぎている…


【なぜ姉さんと結城ちとせは自ら命をたったの?姉さん…私や父さんや母さんは姉さんの命を引き止める理由にはなれなかったの?】


雪乃は今一度自身に出来うることが何かを考えた。どのようにして姉の自殺の背景に迫るにしろ、すでに起きてしまった過去に干渉する事は出来ない、姉が死んだ事は揺るがぬ事実なのだ…死んだ人間からは何があったのかの状況証拠を集めることはできても、新しく何かを問うことはできない…ならば…


【まずは南原唯についてか…】


雪乃は南原心療内科に行くべきかと考えたが、思い直して彼女が勤務していた大学病院を先に訪れる事にした。




   ーーーーーーーーーーーーーーー



「南原について?」


医局で対応してくれた医師は訝しげに雪乃が提示する警察手帳を覗き込み、雪乃の顔と交互に見比べた


「はー、おねぇさんみたいな警察官もいるんだねぇ」


「どう言う意味でしょうか?」


「いや、別に…南原ね、そうだな、何を聞きたいのか知らないけどね、とにかく凄い奴だったよ」


「凄いやつ?」


「刑事さんさ、医療物のドラマとか見たことある?」


「まあ、人並み以下くらいには…」


「ありゃぁまぁ、エンターテイメントだからさ、ゴリゴリに誇張された表現が多いし、実際にフィクションの部分も多々あるんだけど…ウチみたいな大学病院には大なり小なり実際に派閥抗争みたいなのがあるんだよ、派閥抗争って言うと大袈裟か…でも事実医局によって発言力とかが違う訳、だから皆ある程度何かに巻かれて生きてるって言うか…ドラマや漫画の主人公みたいに、誰にも忖度せずにこの【白い巨塔】でやってくなんてことは普通は出来ないんだよ…」


「はぁ…」


「ただ一人、南原唯以外はね…あいつはこんな利権と忖度がコインの裏表みたいにクルクル回る世界で、とにかく自由だった。俺は彼女と歳が近かったから本当に嫌いだったよ、きっと彼女の事が羨ましかったんだろうな…俺が教授の鞄持ちでヘラヘラ後ろついて回ってるのに、あいつは本当に楽しそうに、自由に医療に携わる。いつだったかの忘年会の出欠確認表なんて、欠席に丸つけるだけじゃなくて丸の上に【忙しいんでっ!】って走り書きしてあったからな、医局長主催の忘年会だぜ?信じられるか?欠席したのアイツだけだよ…あんな医者、俺は後にも先にも南原唯以外は知らないね…」


「なるほど…」


「でもな、南原唯の凄さは自由奔放だった事だけじゃぁないんだ」


「と言うと…」


「普通こんな世界で好き放題してたら、上から睨まれそうなもんだろ?ところがどっこい、アイツに限っては全然そんな事なかった…むしろ上の評価は上々で、同期からも概ね好かれていたね、かく言う俺も心のそこからアイツを認めていた、あいつは嫌な事は嫌、したい事はしたいと言うくせに、そこに棘が一才ないんだよ、むしろ他人の心情を汲み取るのが上手くて、あいつと話をしているとなんつうか、いい気分になってくる、自己肯定感が上がるっていうのか?対等に、認められて話している…そんな感覚になってくるんだよな…ありゃ精神科医だからとかそう言う事じゃなくて、あいつの本質からくるモンだろうね、多分」


「好かれていたんですね、とても…」


「少なくとも嫌われる様な奴じゃなかったとは思うよ」


「それで、彼女は今どちらで医師を…」


「わからん、何年か前に突然【やめるわ!】っていって退職してそれっきり、皆と中良かったはずなんだけどな、その後どこに身を振るつもりだったのかは誰にも言ってなかったらしい、あいつ自分のクリニックも持ってたから、熱心な患者や同僚が訪ねに行ったって話だが、梨の礫だったって聞いたよ」


「南原さんは今どうされていると思いますか?」


「さぁなぁ、アイツの場合どこで何やってっても驚かないよ、途上国のスラム街で劣悪な環境で生きる人間の心理を研究してるとか、政府要人専門の【ブラックジャック】やってるとかな、なんでも有り得ると思うぜ」


「そうですか…」


南原唯の開院したクリニックに行っても南原唯の所在が分からない…そんな事が果たして有り得るのだろうか…


雪乃は医師に一礼すると、病院での情報収集を切り上げ、とりあえず彼女が発表した論文にも目を通してみようと考えてその場を後にした。


論文を閲覧する為に足を伸ばした大学病院から程ない距離にある大学併設型の図書館は、広く一般客にも開放されており、南原唯が最後に発表した論文である【幸福的自殺論という精神医学の到達点】は比較的に簡単に見つかった。


分厚い論文を棚から引き抜き、近くの座席に腰を下ろすとコーヒーショップから持参したキャラメルマキアートを啄みながら雪乃は早速目を通し始める…


【どうしよう…全く何が書いてあるかわからない…】


【本能と欲求の乖離】【社会通念と言う同調圧力からの解放】【本質的自由意志】等、幾つか意味の読み取れる物を翻訳してみたが、ここにも姉の死の真相へ繋がる直接的なヒントはなさそうだなと雪乃は思った…


雪乃の学生時代の外語の成績は決して人に劣る物ではなかったが、論文は全文に渡り英語で執筆されており、尚且つ日常的に使用しないような単語が飛び交っている上に、精神医学という分野とあいまって、とてもではないが専門外の人間がおいそれと読み進められる物ではなかった…

かつてユングの本を読もうとして挫折した事を思い出しながら、【日本語に翻訳された書籍でもダメなのに論文となるとお手上げね、挿絵があるだけヴォイニッチ手稿の方がまだマシだわ…】と毒付くと【これは当てが外れてしまったな】と分厚いその論文をパタンと音を立てて閉じ、雪乃は目をつぶったまま天を仰いだ。


少し冷めてきたキャラメルマキアートに今一度手を伸ばそうとした時、雪乃はふと論文の装丁に共同著者の名前が書かれている事に気がついた、著者である【Yui Minamihara】の下に小さく【Ayana Nikaidou】の文字が印字されていたのだ…


【誰かとの共同研究だったと言う事…?】


手詰まりになった雪乃は記載された2人目の名前に何処か後ろ髪を引かれる感覚を覚えたが、どれだけ図書館の蔵書を検索しても他に【Ayana Nikaidou】名義の論文を見つける事はできなかった。


【仕方ないか…】


ここで考えていても埒が開かないと判断した雪乃は【デカなら頭よりまず足を使え、頭ん中こねくり回して思いつく事より、拾える事実を拾って来る事が真相に近づく1番の近道だ】と豪語する田口を思い出し、不本意ながらそれに従う事にした。


本命の【南原心療内科】を目指しながら雪乃は【本当、前時代的…】と田口の捜査方針を鼻で笑った。

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