15
「先生?」
「あぁ、ごめんなさい、少しぼうっとしていたわ」
大学病院の中庭にあるベンチで南原 唯は飲み刺しのコーヒーの缶のフチを掴み、ゆっくりと振り子の要領で左右に振りながら遊ばせていた所、後ろから突然声をかけられた。
「先生はどう思われます?」
振り返るとそこには女性とも少女とも呼べそうな女が立っている、不意の声の主はとても綺麗で、線が細いのに意志の強さを感じ、艶が有るようで、しかし汚れとは縁遠そうな…外観的特徴を形容するのが何処か難しい…見る人間によって評価が二分される美術品の様な雰囲気を醸し出している。
「小津さんの事?」
「そうです…」
「うーん、【どう思うか】かぁ…難しいなぁ」
唯は相槌を打つとベンチの隣に設置された金網製のゴミ箱に狙いを定め、飲みおえたコーヒーの缶をふわりと放り投げる。
手元を離れた空き缶はゴミ箱まで理想的な放物線を描き、ガシャンと音を立ててそこにを吸い込まれた。
「難しい?」
「旦那さんと娘さんの所に行きたいって言っていたアレでしょう?気持ちはすっごくわかるんだけどさ…」
「…まりえは間違っていると思いますか?」
「いや、ぜんぜんっ、むしろ当たり前っていうか…人として至極当たり前な思考だと思うよ、アタシも!でもさ、私は精神科医であると同時にカウンセラーだからね、あれってどう汲み取っても【死にたい】って事になっちゃうじゃない?私の仕事ってそう言う人を救う事だからさ、それならそれでいいんじゃない?って訳にはいかないでしょう?やっぱり…」
「まりえにとってそれが救われる事だったとしても、違う答えに導く事が救いになるのでしょうか?」
「彩名ちゃんは、生き方が超直線的っていうか、本当に純粋だよね、どうなんだろう…私にもわからないけど、生きてればきっといい事もあるじゃない?どん底なんてそうそう長くは続かないわよ…というか、そうで無いと困る。這い上がれない程のどん底があっていい程、人間にとって【どん底】って奴は稀な状態じゃ無いでしょ?」
「そう…ですね…」
「彩名ちゃんはさ、どう考えているの?そのまりえちゃんの…」
「私は…」
彩名と呼ばれたその少女は少し考えてから、意を決した様子で話始めた。
「私は、人生と言うものは、どこまでいってもその人生を歩む人間の為の物であると思うんです…生きている幸せ、人生の素晴らしさ、命の尊さ…こう言う価値観は第三者に強要されるべきでは無いとそう思います…これは【他人の人生の素晴らしさや命の尊さ】を否定しろ肯定しろと言う事ではなくて、命の価値はその命を持てるものが自身で決めればいい。そう言う意味です。」
「んーじゃぁ彩名ちゃんは死にたい人間は自己判断で好きに死ねばいいと思っているって事?」
「ものすごく広義的に意見を纏めればそうですが、人間の心理とはそこまで単純でロジカルに説明できる物ではありません、まりえの件で私が考えて出したボーダーは【死ぬ事が本質的な意味で当人にとっての幸せになる人は死んでもいいんじゃないか】と言うものです…」
「【幸福的自殺論】かぁ…彩名ちゃん、論文かけるよそれ…こりゃどっちが臨床心理学者かわからないね…」
唯はそう言ってケラケラと笑うと彩名を大袈裟に抱き締めた。
「どうにしろ、現代医学で行うメンタルケアに【幸せになる自信が有るならさっさと死になさい】って治療のノウハウは無いわね、死ぬって結末は…とりわけ自殺って結末はその是非に関わらずセンシティブな物なのよ、悩める当人にとっても、その周りの人間にとってもね…」
「センシティブ…ですか…」
「そ、私の仕事は悩める人々に対して、先がわからない道をそれでも歩んでみたら?って背中を押す仕事なのさ!」
「それがその人の望む道で無かったとしても?」
「歩んできた道を途中で終える事と進み続ける事、どっちが結果的に良い物かなんて、それこそ死ぬまでわからないじゃん?終わってしまえばそれまでだけど、歩み続ければそれが薄氷の様に薄く脆い確率に思える物でも、幸福に辿り着く確率は決して0%ではないからね、仮に終わりを選ぶ事が幸福だったとしても、渡り切った薄氷の先が不幸とは限らない、仮に両方とも幸福な結末なら、長い方がお得だと思わない?」
「そうですね…」
「彩名ちゃんさ、精神科医目指してみたら?向いてると思うよ、あたし!」
「私が?ですか?」
「私は彩名ちゃんより少しお姉さんだから、いろんな人間見てきたけどさ…キミみたいに相手にとって何が一番幸せな選択かを客観的に判断して、それを肯定出来るのってとんでもない才能だと思うよ?まぁ、社会的に賞賛されるかはわかんないけどね」
「先生はその、迷ったり…立ち上がれない程悩み悲しんだりはしないのですか?」
「んーそりゃ白衣着てても人間だからねぇ…悩んだり辛かったりする事は人並みにあるけど…私ね、今年結婚したの、まぁ別に普通って言うか、特別な事はない結婚なんだけど…大きくは無いけど家買ったりしてさ、何て言うか人生を積み上げてる実感があるんだよね、子供を育ててみたいとか平凡な未来への展望も人並みに持ってる…だから今はむしろすごく幸せで、悩みらしい悩みってないかなー」
「素敵です、先生みたいに生きていけるなら、心理学者も良いなってそう思います。」
「嬉しいけど、恨まれたく無いから一応伝えとくね…」
「…?」
「医師と言う肩書きからは想像できないレベルで薄給だぞ?そのくせ激務だ精神科医は!」
唯は彩名に抱きつきながら今一度ケラケラと大声で笑うと、クシャクシャと彩名の頭を撫でて彼女を解放した。
【内科医も検討しておきます】そう言って会釈をして去っていく彩名を見送りながら、唯は頭の中で彩名の言葉を反芻させる…
【幸福的自殺論…か…】
唯はしばらく今の医療のあり方と彩名が訴える【解放】はどちらが患者にとって救いになりえるのか考えてみたが、結論は出せなかった。
「ナンバラ先生ー!」
後ろから今度は医局の職員に声をかけられる。
この話を第三者にしたら何と言うだろうか…どんな見解を持つだろつか…一瞬、そんな事を想像したが、藪蛇だなと考え直した。
「あのっ!ナンバラじゃないんですよ!ミナミハラです!ミ・ナ・ミ・ハ・ラ!」
白衣をはためかせて歩き出した唯の思考は、既に旦那と囲む夕飯の献立へ切り替えられていた。
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