14
雪乃は机に置かれた上品な芸術と言える食器に手をつけて良いものか逡巡し、結局は白いレリーフが施された淡いブルーのティーカップに角砂糖を一つ入れた。
「これ、ジャスパーですよね?私完全に飾り物だと思っていました…」
「あら、食器として作られたものよ、食器として使われずに棚に飾り付けられて終わってしまうなんて、そんなの食器もきっと悲しむわ?」
老婦人はそう言うと【違う茶葉もあるの、よかったらゆっくりしていって頂戴ね】と微笑んだ。
この日雪乃は結城ちとせの実家を訪れていた。
警察だと言う身分は明かしたが、対応してくれた婦人には個人的にここに来ていると説明した、婦人は暫く要領を得ない様子で考えるそぶりを見せていたが、自分の中で落着したのか【そうなのね、どうぞ入って】と雪乃を招き入れた。
聞けば雪乃が来訪する数日前に橘凛もここを訪ねてきたと言う。
雪乃は凛が折れること無く、もがきながら前進しようとしているだろう事を知れて、他人事ながら少し嬉しくなった。
頑張れ、進め、とそう思えた。
「申し訳ありません…急に訪ねてしまって」
「あらあら、刑事さんも橘さんと同じような事をおっしゃるのね、いいのよ、橘さんにも言ったことだけれど、老人を訪ねて来てくれる若いお客様はとても貴重なのよ?」
「そういって頂けると心が幾分か楽です」
「本当にお気になさらないで?ところで今日はどういったご用件で?」
「無遠慮な質問で恐縮なのですが、結城さんは南原心療内科というクリニックをご存じでしょうか?」
「ええ、勿論、ちとせがお世話になっていた病院だわ?そういえば橘さんにも同じことを聞かれたわね…」
「あぁ、それはきっと私のせいですね」
「貴方の?」
「いえ、お気になさらないでください…」
「そのクリニックに何かあって?」
「わかりません、ただ…自ら命をたった私の姉もこのクリニックの患者だったんです」
「まぁ…お気の毒に…お姉さんを亡くされたのね、辛かったでしょうに…」
「私は今、なぜ姉が自ら命をたったのかを知りたくて調査をしています。捜査では無く調査です、私が個人でしている事なので…姉が亡くなってから暫く時間が経ってしまいましたが、ようやく私はそれが出来る社会的な地位と信用を得るに至りました…姉の死に答えを出したいと、そう考えています」
「………」
婦人は何かを慈しむ様な表情で雪乃を見つめ、何かを言おうとしている様子だったが何も言わなかった。
「結城さん、私はその、この話を進める前に、どうしても結城さんに謝らないといけない事があります。」
「謝らなきゃいけない事?」
表情をこわばらせる雪乃に婦人がふわりと問いかける。
余りに自然で飾らないその問いに雪乃は詰まっていた何かを押し出され、言葉を選びながらではあるが話を始める事が出来た。
「2010年、12月24日に世田谷であった自動車事故の件です…」
ここまで言って、初めて婦人の表情が曇った事を雪乃は見逃さなかった。
それでも言わなければならない、伝えなければならない、そうしなければ、私はここより先には進めない…
そんな気持ちが雪乃を責め立て、同時に奮い立たせる。
「結城さんの息子さんと、その奥様が亡くなった交通事故で、車を運転していた加害者が私の姉の夫です、つまり、私の義理の兄に当たります…」
「それじゃぁ…」
「結城さんは被害者遺族、私は加害者の遺族です、お会いした時にすぐお伝えするべきでした…申し訳ありません」
雪乃は改めて婦人に深々と頭を下げた、それが、雪乃に今できる精一杯の真摯な謝罪だった。
「頭をあげて頂戴…」
カップに注がれたアールグレイを丁度飲み終えると、婦人が雪乃にそう声をかけた
「そうだったの…人生という物は数奇な物ね、この歳になっても驚かされる事ばかり…あの事故の加害者の義理の妹さんが、被害者である娘のちとせの自殺の捜査をする事になっていたなんて…本当に、信じられないわ…」
「私は…なんと言って謝ればいいか…」
「成宮さん、いいのよ?もういいの、悔やんだり、後悔しても時を巻き戻す事は出来ないわ、確かに息子が死んだあの日、私は生まれて初めて神様を呪ったわ、なんで?どうして?暫くはずっとそんな事しか考えられなかった…でもね、それはきっと、唐突にご主人と娘さんを失った貴方のお姉さまも同じだと思うわ、あの時は…そうね、私は出来る事なら息子と変わりたいと思っていたけれど、生後まもない娘さんを亡くしたお姉様は、より強くそう思ったでしょうね…まして成宮さん、貴方はその妹さんで、あの日の事故とは何一つ関係がないじゃない、私と同じ、【突然さよならを言わずに置いて行かれてしまった】側だわ、謝る必要なんて、一つもないのよ?」
婦人が優しく雪乃の手を包んでくれた瞬間、雪乃の右の瞳から大きな涙が一筋、頬を滑り落ちた。
許された気がした…
果たして何から許されたのか、雪乃はどんな罪を背負っていたというのか、違うのだ、そうではない、理屈では決して説明出来ない物に雪乃は長い間、心を縛り付けられていた。
誰かが縛り付けたわけじゃない、雪乃は自ら進んで縛りつけたのだ、姉が死んだ理由にたどり着くまで忘れぬように、あの時感じた気持ちが、時間と共に徐々に風化してしまわぬように…
打ち込んだ楔は解錠の仕方を忘れ、それでもなお雪乃が抱く遠い日の姉の残像へと突き動かす動機として、雪乃を支配し続けた。
この時、婦人に手を取られたその瞬間、雪乃は自分が進まんとする道を誰かに肯定してもらえた、そんな気がした。【加害者の親族の自死の真相】を追う事が、遺族への冒涜ではないと、そう言われた気がしたのだ。
気がついた時、雪乃はまるで子供の様に顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
もしかしたら姉が死んだ日から雪乃の時計は止まっていて、赦される事でようやく時間が動き出したのかもしれない。
優しく、また強く、泣き崩れる1人の女性を抱きしめる被害者遺族の老婦人は、落ち着くまで加害者遺族である雪乃の頭を撫で続けた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「すいません、取り乱してしまって、お恥ずかしい限りです」
「私は成宮さんがどんな思いを抱えて、お姉様の足跡を追いかけているかはわからないわ、それでも残された人間がどんな思いで毎日を生きるかはわかるのよ?恥ずかしい事なんてないわ、ここまで一人で歩いてきた貴方と貴方の気持ちを、どうか誇りに思ってあげて」
雪乃は未だぐずり出しそうな涙腺を締めようと一度天を仰ぎ、向き直ると話を続けた。
「姉とちとせさんを担当していた南原心療内科の院長なのですが…」
そういって雪乃は一枚の写真を机の上に差し出した。
そこには大人とも、子供ともとれる様な、何とも形容し難い美しい白衣姿の女性が写っていた。
「私はこの医師が何らかの方法で姉の自死を幇助していると考えています、幇助と言わずも、関与はしています、そこは裏が取れています、ここ数年、このクリニックを受診している患者の自殺件数が明らかに自然値を超えているんです、私はここに全ての起源があるのではないかと睨んでいます。」
「……」
「些細な事で結構です、結城さんがこのクリニックにかかっている間、担当医について何か気になる事はありませんでしたか?」
「…成宮さん、私は心から貴方の力になりたいと思っているわ、本心よ?私にできる事があるならどんな事でもしてあげたい…でもね、協力出来ないわ」
「そんな、どうしてですか?」
「だってこの人は、ちとせを担当してくれた南原先生ではないもの…この方がどなたかは私にもわからないけれど、全くの別人よ、それは間違いないわ」
【そんなバカな話があるか】雪乃は混乱した、今雪乃が婦人に提示している写真は間違いなく南原クリニックの院長の物だ、実際に自分で病院に赴き確認したのだ、間違いようがない。
しかし、ちとせの祖母であるこの婦人は写真の人物を南原心療内科の院長ではないと言う。
【私は今まで、誰を追っていたんだ?】
当然の疑問が雪乃の頭を支配する。【婦人と面識の有る南原院長】が実際の院長でなかった可能性は低い、クリニックの代表者である事以前に、10やそこらの娘のメンタルケアを担当する医師だ、初診の時のみならず、治療経過の説明など保護者に相対する機会は少なくないだろう。
【だとしたらこの女は一体誰なんだ…】
確認し得ない不安にのし掛かられる様な寒気がして、雪乃はティーカップに手を伸ばして慌てて紅茶を流し込んだ。
しかし、雪乃の期待を裏切るかの様に紅茶はとっくに熱を失っていた。
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