13



凛は読み終わった手紙を自室のテーブルに置くとそのまま突っ伏して泣いた。


物心ついてからここまで泣いた事が果たしてあっただろうか…こんなに純粋に【悲しい】と思った事は有っただろうか…


どれぐらいそうしていたのだろう、壁に掛けられた時計の秒針がコツコツと刻を刻む音に気がつき、凛は顔をあげる。


結城ちとせの死について、何か多少の手がかりが得られるんじゃないかと考えていた凛に、彼女の手紙が伝えたのは余りにも純粋すぎる愛だった。


凛は好きだったはずの一人の女性の事を、やはり全然理解できて居なかったんだなと、今一度痛感した。

オーナーが【わかってあげられない】と苦悶していたが、本当にその通りだと思う。


結城ちとせが自ら命を断ったあの日、何か自分に出来た事は有っただろうか…今から彼女のためにできる事は有るだろうか…


凛はこれまで、他人でしかない自分が結城ちとせの死の真相を追いかける事に良いえぬ後ろめたさを感じていた…上手く説明出来ないが、人の日記を勝手に読み漁る様な、そんな感覚を覚えて居たのだ。

しかし、この手紙は、迷いながらも歩き出した凛の背中を、結果的に強く強く押す事になった。


これが結城ちとせが意図した事かどうかは解らない、むしろ凛はどちらかと言うと、ちとせは触れてほしくない物を抱えている気がしていた、もし伝えたい事が有れば手紙に書かれているはずだと考えたからだ。


凛は手紙を受け取った日、ちとせの祖母に【南原心療内科】の事を訪ねてみた、雪乃が去り際に教えてくれたそのキーワードが必ずどこかでちとせに繋がる何かだと考えての行動だった。


祖母は、そのクリニックはちとせが両親を失った時に閉ざしてしまった心を取り直す為に通い始めた病院だと言う事をいともあっさり教えてくれた。クリニックの女医は若く、常識人で、通院を繰り返すうちに祖父と祖母にも実感できる速度でちとせの表情は明るくなっていったと言う。


凛は日が落ち始め、薄暗くなった自室の中でPCの画面に何か打ち込むと、ジャケットとヘルメットを持って部屋を出た…

家主を失った部屋で淡い光を放ち続けるPCの液晶画面には【南原心療内科クリニック】の文字が映し出されたままになっていた。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



凛は小さな病院のウエイティングスペースで名前が呼ばれるのを静かに待っていた。


ーー結城ちとせは一時期、心療内科内を受診していた時期があるーー


祖母からこの話を聞いた時、自死を選択した彼女に心療内科の通院履歴があるのはむしろ自然な事に思えた。

凛が想像するに、多くの自殺者は死に至るより前の段階で精神疾患等を理由として、その手の医療機関を受診する物なのではないかと考えていたのだ。

それでも自分と近しい人間が自分の預かり知らぬ所で心に不調を抱えていた事はショックだったし、結城ちとせはソコとは対岸にいるタイプの人間に思えて何処か納得は行かなかった。


未だ結城ちとせの胸のうちは分からない…不鮮明な事だらけのモヤの中を進む思いで凛はとりあえずクリニックに行く事にした。

話を聞きに行くと言う選択肢もあったが、凛は思い切って【患者】として受診してみる事を選択する。

これにはいくつか理由が有ったが、一番の理由は可能な限りちとせと同じ感情、立ち位置でクリニックを見ておきたかったからだ。


「橘さん、橘凛さん、第一カウンセリングルームへどうぞ…」


柔らかい声に誘われ、凛が部屋に入ると、真っ白な部屋で真っ白な白衣に身を包んだ女医が待ち構えていた。

女医の掛けるデスクに置かれたポインセチアの赤が何処か主張しすぎな異物に思えて、一瞬何処に視線を向けるべきか凛を迷わせる。


「こんにちわ、えーと橘凛さん…事前のカウンセリングシートには…ええと、学業と人間関係に悩み…何か問題がある…のかしら?」


女医はPCを覗き込みながら凛が待合で記入した書類を洗っていく。


「ええと…今大学三年生で…就職活動の真最中なんですけど…どんどん周りが内定をもらっていく中で自分だけ就職先が決まってなくて…だんだん苦しくなって、友人とも上手く行かなくて…ここを紹介されたんです…」


話を聴きながら何度か小さく頷きつつ、カルテの確認を終えると凛へ向き直り、女医は真っ直ぐに凛の瞳を覗き込んだ。


どれくらいそのままで時間が過ぎただろうか…おそらく実際の時間は1分そこそこだったと思う、だが凛にとってそれはとても長い時間に感じられた。


「あら、なるほどねぇ」


「あの、」


「私が貴方にしてあげられる事は何かあるかしら?」


「してあげられる…こと…?」


「ここが心療内科なのは理解して受診しているのよね?その事を踏まえて話を進めるけれど、まず、貴方の心は少しもほつれていないわ…」


「ほつれ?…あの、すいません、どういう意味ですか?」


「そうねぇ、つまり壊れていないものを治すなんて事は、神様にも出来ないってことね」


彼女はそう言うと立ち上がり、部屋の隅に置かれたコーヒーメーカーでコーヒーをドリップし始めた。


「貴方の心は今、疲弊してはいるけれど、別に壊れては居ない。色も穏やかな物だわ、絵に描いた様な【健全な精神】だと思う…心療内科を受診しにきておいて、その実大して参っていないと言う人間は少なくないけれど、その手の患者には【自分は大層酷い目に遭っている】とか【自分が世界で一番不幸だ】って色が滲むものなのよ…」


「…色?と言うと…」


「ごめんなさい、少し飛躍して聴こえてしまったかしら…貴方がもし、今本当に自分の心が病んでいると考えているのなら、家に帰って暖かいミルクを飲んで、よく眠るといいわ…お大事に…」


ものの数分で終わった診察に呆気に取られる凛に構わず、看護師が【こちらへどうぞ】と待合に促す。


部屋を出されんとする凛に女医は【壊れたらまたいつでもいらっしゃい】と告げ、コーヒーに手を伸ばすと、既に次の患者のカルテに目を通し始めていた。


凛はしばらく待合室の椅子に腰掛けず、呆然とその場に立ち尽くした。

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