06

「もう、耐えられないんです」


男は深くこうべを垂れ、絞り出すように言葉を紡いでいく。


「先生、見いだせないんですよ。何も…何も見いだせないんです。何を聞いても、見ても、食べても、何も感じないんです。何もしたくないんです…ソファーに座って、テレビを見ていても内容が一つも頭に入ってきません、むしろテレビを見ている実感すらなくて、そのうち呼吸すら煩わしくなりそうな感覚に襲われます。」


見渡す限り白いこの部屋で、男が腰かけるベルベットの椅子と、女医がキーボードを叩くデスクの上に置かれたポインセチアの鉢植えだけが、異様ともいえる赤い輪郭を浮かび上がらせている。


「誰だって人生に大小の問題を抱えて生きているわ、樋口さん、貴方はどうしたいのかしら?」


「わかりません、もう、自分がどうしたいのかを考える事そのものが億劫なんです。」


「そう…、私はただの医者だから、貴方の人生がこの先どうあるべきかは決められないわ、私に出来る事は貴方が求める未来や結果にコミットするためのお手伝いなの…貴方の迷いや、苦しみや、後悔を、貴方以外の誰かが推し量る事はとても難しい事だわ、でもね、今の現状全てが貴方にとって億劫だと言うのなら、全て一度やめてしまったらどうかしら?」


急がず、しかし遅い訳でもないペースで諭す様に言葉を紡ぐ女医の声は、なんとも柔らかく、聞く者にとって心地良かった。外見においても成熟した艶の有る大人の女のそれと、どこかあどけなさを残す少女の様な若さを合わせ持つ印象で、声質、振る舞いとあいまって、彼女の年齢をひどく曖昧な物に感じさせた。


「辞めてしまう…投げ出して逃げ出すという事ですか?」


「したくない事をしないと言う選択が、貴方にとって逃げ出す事になると言うならそうね、でも私はそうは思わないわ…これは貴方に限った話ではないのだけれど、私から見て現代人は皆、本質的に窮屈に生きている様に感じるの。たしかに勤勉や勤労、努力や忍耐は美徳ではあるけれど、耐えがたい物を耐えようとするから、現代はこんなに心療内科が盛況なのよ…」


「とどのつまり、心療内科なんて患者が誰もいない方が人の世の為には良いことなのだと思うわ」


彼女はそういうとバツが悪そうに微笑んだ。


「例えば公園のベンチに腰掛けて一日過ごすとか、一見無駄に見える時間や行動が、存外人の心のバランスを保つ事に重要だったりするものよ?もちろん、公園のベンチというのは一例で、方法は人によって違うわ、貴方にとって苦痛じゃない、自然体で居られる時間の作り方を探す事が大切だと思うの…それを踏まえた上で、もう一度最初から考えてみましょう?貴方を苦しめている物はなに?」


「仕事…人生…生きていく事にどうしても順応できません」


「そう、具体的には?」


「朝7時から日付が変わるまで会社に居ます…どんなに意欲的に効率を重視して仕事をしても叱責され、終電の時間が差し迫っても割り振られた仕事が終わりません…休日も出社し、なんとか仕事を片付ける生活を何か月か続けると、さらに割り振られる仕事量が増えていきます。」


「仕事を辞めようとは思えない?」


「父と母は決して裕福ではない財政状況にも関わらず、私の名門私大への進学を快く認めてくれました…就職活動の現実に心すり減らし、やっとの思いで今勤務している総合商社の内定を取り付けた時も、涙を流して喜んでくれました。私の学歴・勤務先は年老いた両親にとってささやかな自慢のようで、とても会社を辞めるなどと言い出せません…」


「貴方が悩んで、苦しんでいても?ご両親は今の職場で働き続ける事を望むかしら?」


「いいえ、絶対に職を変える様に言うでしょう、だから言えないんです、そんな両親だからこそ、言えないんです…」


「優しいのね、ご両親も、貴方も」


「わかりません、そうなのでしょうか…」


そういって患者はうつむくと、ポタポタと床に水滴を落とし始めた。


「貴方はいま、どうしたいのかしら?どうしたら苦しく無くなるのかしら?」


「終わりにしたいです、本当に疲れました、毎日ただ死んでいないだけの日々です、死にたい理由はとめどなくあふれ出してくるのに、生きている理由が一つも思い当たりません…」


「ご両親は?」


「父と母は本当に良くしてくれました、二人が育ててくれたこの人生を終える事に負い目は有りますが、このまま私が壊れてしまうより、幾分ましな幕引きに思えます…今は、そう思えてしまうんです…」


「そう…」


女医はデスクから立ち上がると、患者の肩に手を乗せる。彼が足元に作った小さな水たまりに目をやると、母が子を慈しむ様に優しく声をかけた。


「辛かったわね、でも大丈夫、貴方の人生は貴方の物よ。」


「先生…」


何かに縋る様な目でこちらを見つめる患者を見つめ返しつつ、女医は【あぁ…この人は多分違うな…】と思った。


デスクに置かれたコーヒーからは、いつものいい香りを立ち込める湯気が運んでいた。









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