戦場の糸繰草(二)

 詩人は押し黙った。

 戦のことに無知な詩人でも、指揮官の意図は解ったからだ。それは小径こみちの防衛を放棄し、敢えて敵に小径を渡らせて決戦を挑み、一戦してこれを殲滅させるという途方もない考えだった。今ここで小径を守り抜き、侵入者たちを追い払えたとしても、彼らはベオルニア王国の別の場所を襲うだろう。そうさせないためにも、この地で侵入者を全滅させたいと指揮官は考えている。

 だが詩人には無謀な試みとしか思えなかった。

運命の女神たちノルニルの糸に紡がれるのは、まだ先のことと存じますが……」

 おずおずと口にした詩人の言葉を、諭すように指揮官は制した。

「リュシアン殿。我らはノルニルに召される覚悟はもうできている」

 エルドレッドは顔を紅潮させながら拳を握り締め、その爪を掌に深く食い込ませつつ、じっくりと言葉を放った。

「だがベオルニアの民草の命を、ノルニルの手に差し出すわけにはいかんのだ」

「……」

 重く力のあるその言葉に、詩人は吐くべき言葉を探し得ず、竪琴リラを抱く腕を硬直させて次の言葉を待った。そんな詩人に対して、エルドレッドの声は一転して穏やかなものとなった。

「そして貴殿もまた、ここでノルニルに見出されるべきではない」

「……」

 吹きつける夏の海風は潮のを運び、旗を揺らした。ベオルニアの鷲の紋が夏の日を浴びて、意気揚々と空に舞う。詩人の言葉を待たず、指揮官は続けた。

「貴殿をここに伴ったのは開戦の歌をお願いするため、そして叶うならば我らが姿を語り継いでもらいたかったからだ」

「……」

「いずれ、この国はアラン人どもに屈するやもしれん。だからこそベオルニス人が誇りを持って奴らと戦ったことを語ってやってほしい」

 詩人は何も言えなかった。指揮官の決意を前にして、かける言葉は全て陳腐なものにしかならないことはわかっていた。だから、深々と首を縦に振り、無言で諒解の意を伝えた。

 するとエルドレッドは突然話題を変えた。

「俺には娘がいる。貴殿も幼き日に一度ぐらい目にしたことがあるかもしれんが」

「覚えておりません」

 詩人が口にした短い否定の言葉に、指揮官は残念そうに「そうか」とだけつぶやいて、詩人から目線を外して空の遠くを眺めた。細めた目が、娘への愛情を雄弁に語っている。

「俺は卑怯な男でな、可愛さのあまり自分の娘だけは安全なところに避難させてしまった」

 自嘲気味に吐き出された言葉に、未だ人の親ではない詩人は何と答えてよいのか判らなかった。

「メリザンドといって、遠くシフィア湖岸の〈学院〉に送ってある。もし、貴殿がシフィア湖周辺に足を延ばすようなことがあれば訪ねてやって、父がいかに戦ったのかを話してやってほしい」

 そうして後方に控えた従者に合図を送ると、近づいた従者に指示を出した。陣内に消えていった従者は、しばらくして箱を抱えて戻ってくるとそれを指揮官に差し出した。エルドレッドはその箱の中から、いくつかのものを手に取って詩人に渡した。

「その報酬と、そしてこれは娘への形見だ」

 死者にはもはや必要ないとばかりに手渡された袋はずっしりと重く、莫大な報酬がそこに詰められていることがわかった。そして形見として手渡された短剣と銀の首飾りには、アザミの紋があしらわれていた。その花はエルドレッドの家の紋章で、鷲の旗の横にはアザミの旗が誇らしげに陽光に咲いている。

「多すぎます。娘御にお届けするべきものと存じますが」

「貴殿の好きに分配すれば良い。あれには十分な金品を持たせているから、全て貴殿が持っていっても構わん。ただ、剣と首飾りだけは娘に届けてやってほしい。剣は俺からの、首飾りはあれの亡き母親から預かった形見だと」

 この言葉の裏に、どれほどの苦悩があるのだろうかと詩人はその胸中を察し、唇を噛んだ。その愛娘に、恐らく指揮官はもう会うことはないだろう。

「承知仕りました。必ずや、その約束は果たされましょう」

「頼む。馬を一頭持っていくがよい。貴殿の口上が終わり、その姿が見えなくなったところで、両軍はぶつかる予定だ」

「……」  

「俺は部下どもの面倒を見てくるよ。そして明日は戦の指揮をせねばならん。貴殿とはもう少しゆっくりと話をしてお父上のことなどを語りたかったのだが、それも叶わないようだ。夜に時間があれば、そういったことも話そうではないか」

 詩人が言葉を発するいとまを与えず、戦士は足早にその場を離れた。その離れ際の独り言が、リュシアンの耳に聞こえ残った。エルドレッドは言った、

「鷲は明日も羽ばたいているだろうか。それとも向こうの大鴉オオガラスが戦場を跋扈するのか」 

 ベオルニアの鷲の旗が風をうけてバタバタと音を立てている。その横のアザミの旗も揺れている。詩人は対岸の小島に目を移した。眺める先に、北方民の船を覆い尽くす多数の円盾がある。そしてその多くに、彼らが神聖視する大鴉の意匠が施され、不気味にこちらを睨みつけていた。


* * *


 遡ること一日。

 敵将オラーブからの懇願がべオルニス人たちに伝えられていた。その使者は言う、

 ──我らアランの民は決戦を所望する。ついては、我らをして〈橋〉を渡らせたまえ、と。

 防衛戦の重要な拠点である〈橋〉。干潮時にのみ姿を現すその狭い潮間帯の小径こみちを無傷で渡らせた上で、平地での全軍衝突を申し出る内容に、エルドレッドの家臣団は怒りたった。

「そのような要求、飲む必要はありませぬ。我らはこの〈橋〉を死守するのみです。そうすれば勝てます」

「その通りだ。ここを死守すれば我らは勝つだろう。だが……」 

 誰かの具申に首肯したエルドレッドであったが、今一度、麾下の者どもを見渡した。部下たちの意見に反して、エルドレッドはこの申し出に応えるつもりでいた。だが顔には苦悩が浮かぶ。そして「これから先の言葉で、俺はこの従士たちの命を無駄にすりつぶしてしまう」、心の中でそうつぶやいた。

 麾下の者どもは、主君の言葉をじっと待っている。エルドレッドは慎重に、口にすべき言葉を考えた。

「だが、アラン人どもは我らにつきあう義理はないのだ。我らに勝てぬと悟ったならば、他を当たれば良いだけ。我らがここを守りきる代わりに、この国のどこかが襲撃され蹂躙されるだろう」

「ならば、どうすると言うのです?」

「別の場所など、別の首長エアルルが責任を持って守ればよいだけのことです!」

 当然のことを従士達は口にする。だが殆どの者は、他の首長たちに期待を抱いてはいなかった。実のところ、アラン人に服従して戦を避け、自己の所領と民を差し出して保身を図る首長は多い。敵に協力する首長さえもいる。その犠牲となるのは、無辜の民であった。たとえ他人の領地であったとしても、べオルニス人の土地が侵され、富を収奪され、民を殺され犯されることを見過ごせようか。エルドレッドは言外にそう伝えている。

 だから部下たちは押し黙った。

 それが部下の命を代償とするものであると、エルドレッドはわかっている。だが、非難覚悟で彼は口を開いた。

「ベオルニアの国土が、女子供が害されることを見過ごすことが出来ようか。もし我々に、今できることがあるとしたら」

「……」

「勝てぬまでも、アラン人どもに今回の侵略を続行できぬほどの被害を、この地、この一戦で与えることだけであろう」

 部下の顔を見回して、エルドレッドは彼らベオルニス人の誇りに訴えかけた。

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