第2話

 夕方のラッシュアワーとかち合わないように浩之の家を辞去し、政雄は制服姿の学生が目立つ東西線に揺られて自宅に戻った。

 四十歳になって手に入れた中古マンションの玄関扉を開け、薄暗い無人の部屋に入った。

 十歳違いの妻の優子は現役で働いていて、帰りは十時を過ぎることが多く、残業の帰りに飲んで会社近くの同僚の家に泊まることもある。

 今年二十六歳になる一人息子の政弘は、昨年の秋に勤めている流通大手企業の福岡支社への転勤で家を出ている。

 図らずも政雄の定年と息子の転勤が重なり、三LDKのマンションで、約四半世紀ぶりの夫婦水入らずの生活になったのは、政雄にとっては計算外の出来事だった。

 それでも初めのうちはルーティンワークのない政雄は、早起きをして散歩に出かけ、帰宅後に簡単な朝食を作って妻の優子のご機嫌を取るようにしていた。

 それ以外に、部屋の掃除や洗濯、食料品や日用品の買出しも政雄の役割だ。

 だが、半月もしないうちに、優子から余計なことはしないでくれと一方的な通告を受けた。

 仕事やカルチャースクール通いなど、外出が多い優子のためを思ってしたことが、逆に疎ましく取られてしまったようだ。

「今まで家事とかしなかったんだから、急にそんなことしないでちょうだい。これからは、お互いに自分のペースでやって行けばいいんじゃない?あなたも毎日家でゴロゴロしてないで、短時間でいいから働いたらどうなの。それが無理だったら、趣味でも何でもいいけど好きなことをしなさいよ。とにかく、私には私のペースやリズムがあるんだから、余計なことはしないで。頼みたいことがあったらちゃんと言うから」

 政雄が朝食用にと作ったベーコンエッグに口をつけることもなく、優子はきつい口調で言った。

 それ以来、自室の掃除と自分の着用した物の洗濯以外は、トイレと風呂などの水回りの掃除しかやらないようにしている。

 優子が気分を害した原因は良く分からないが、平日の帰宅時間は更に遅くなった。

 土日も外出することが多くなり、友人の家に外泊をする頻度も増えている。

 家の中で顔を合わせる機会が減って会話をする時間もなく、最近は食事を一緒に摂ることは全くない状態だ。

 幸い夫婦の財布は別にしているので、来月から厚生年金の支給が始まる政雄は、コツコツと溜めたヘソクリ貯金もあり、小遣いを貰うために卑屈な態度を取る必要はない。

 優子は出産のときに休職はしたが、その時以外は休むことはなく、精密機器メーカーの総務人事部で課長としてバリバリと働いている。

 マンションのローンは、優子の尽力もあり、政雄の定年退職前には完済していた。

 今はお互いに生活費の名目で、共通の口座に同額の入金をしてやりくりをしている。

 支出の方は、食費の他に光熱費とマンションの修繕管理費、保険関連が主な費目になる。

 優子が家で食事を摂らなくなったので、食費に関わる支出が極端に少なく、素直に喜んでいいのか分からないが、毎月黒字になっていた。

 政雄はセコいと思いながらも、時々残高のある共通口座から小遣いとして流用することもあった。 

 

 昼から〈紅龍亭〉と浩之の家で飲んだので、あまり食欲はない。

 特に観たいテレビ番組もなく、することがないこの不安定な時間が、政雄にとっては悩ましい。

 自分の部屋に入り、ラグマットの上に寝転がってぼんやりと天井を見ていると、半世紀近い時を経て再会した梅沢のことが自然と頭に浮かんでくる。

 中学時代のおどおどとした感じは微塵もなく、どちらかと言えば傲岸不遜に思える程の変貌ぶりだった。

 離婚して現在は一人のようだが、子供はいるのだろうか。

 熱中出来るような趣味はあるのだろうか。

 そして、長い間離れていた下町に住まいを移す動機は一体なんなのだろうか。

 再会したばかりの微妙な距離感からか、梅沢は自身のことをあまり話さなかった。

 これから顔を合わせる機会は増えると思うが、政雄は何かしっくりこない気分だった。

 人間関係が煩わしかった仕事を辞めたばかりなのに、新たに交友範囲を広げるのが面倒だという側面はある。

 だが、それよりも梅沢の内面から滲み出てくる、人を不快にさせる毒気のようなものが気になった。

 これから会う頻度が多くなり、中学時代の昔話や、卒業してからのお互いの生活などの話をすれば、打ち解けることが出来るようになるだろうとは思うが、何故か会うのが億劫に感じる。

 突然、静かな室内にラインの着信音がして政雄はビックリした。

 送信者を確認すると、会社時代の同期からだ。

 スマホのロックを解除して確認すると、今週の金曜日に開催予定の飲み会への参加の再確認だった。

 政雄は予定しているので大丈夫だと返信してから、スマホをベッドに放り投げた。

「飲み会か……」

 することもなく部屋にいることに罪悪感みたいなものはある。

 早朝の散歩と、浩之や元の会社の仲間と飲むことくらいしか用事がない。

 そんな自分を情けないと思う。

 だが、もがいても熱中できるような趣味や、やりたいことを見つけることが出来ていない。

 このまま歳を重ねても、何かいいことがあるとは思えない。

 だからと言って、無理に交際範囲を広げたり、趣味を探すために中高年向けのカルチャースクールとやらに通う気にはなれなかった。

 陽が落ちて暗くなった部屋で、政雄は世の中から取り残されたような気分に襲われて、思わずため息をついた。

 

 コンビニで買ってきた卵サンドを夕食として腹に入れ、入浴を済ませて時計を見ると十一時になっていた。

 優子はまだ帰宅していない。

 残業なのか、それとも仕事帰りに同僚と飲んでいるのか、連絡がないので政雄には分からない。

 いつものように特にすることもないので、缶ビールとタバコを持って寒風が吹きすさぶベランダに出た。

 仕事を辞めることを決めた時は、定年後は優子と過ごす時間が増えるので、夫婦生活の再構築をする努力をしようと考えていたが、現実は真逆の状態だ。            

 政雄は課長に昇進してからは、地方支社勤務の連続だった。

 初めての転勤の時は、息子の政弘はまだ小学生で、中高一貫校の受験を控えていたし、優子も仕事を辞めるつもりは毛頭なく、結果的に、本社に戻るまでの約十年間、政雄は各地方の支社で単身生活を送って過ごした。

 多忙な合間を縫って家に帰っても、妻の優子は息子の世話と仕事に忙殺されていて、帰宅して寛ぎたい政雄は邪魔者扱いだった。

 当然、夫婦の営みなんてものは期待出来るはずもなく、軽いスキンシップさえもない関係になっていた。

 思春期真っただ中の政広も、心なしか父親の自分を敬遠しているように見えた。

 次第に政雄は歓迎されていない家に帰るより、気ままに一人暮らしを謳歌出来る赴任先の部屋の方が居心地良くなっていた。

 会社から月に一度の帰宅手当は支給されていたが、徐々に三月に一度のペースでしか帰宅しなくなり、気が付けば、盆休みと年末年始にしか自宅にいない生活が当たり前のようになっていく。

 働き盛りで肉体的な欲求も旺盛だった年齢だったが、転勤する先々でそれなりに相手・・と出会うこともあり、公私共に充実した時間を過ごすことができた。

 だが、政雄が謳歌していた約十年の月日が、夫婦の間に埋めがたい溝を作り、本社勤務になって自宅から会社に通うようになってからも、優子との距離は戻らないままだった。

 そして、政雄が定年退職して家にいる時間が増えた今は、夫婦間の距離は絶望的なまでに広がっていくばかりだ。

 寒風で千切れるように流れるタバコの煙を見ていたが、身体が冷えてきたので政雄は室内に戻り、歯を磨いてから冷たいベッドに身震いしながら潜り込んだ。

 

 翌朝六時過ぎ、政雄は目覚まし時計の世話にならずに起床し、キッチンで水を飲んでから散歩に出かけた。

 まだ薄暗い空の下を、通勤通学で駅に向かう人たちは一様に寒さに肩を竦め、俯いて黙々と歩を進めている。

 政雄はその人波とは逆方向に、スマホから流れる音楽をイヤホンで聴きながら、早歩きで江戸川に向かった。

 途中の自動販売機で、冷えた手では火傷するくらいに熱い缶コーヒーを買い、ダウンジャケットのポケットに入れてカイロ替わりに暖を取った。

 土手に登り、朝陽の中、銀鱗を光らせる魚のように走る東西線の車両を眺めながら、缶コーヒーを一口飲んでからタバコに火をつけた。

 昨晩、優子は帰って来なかった。

 風呂やキッチンを使った形跡はなく、トイレの便座も上がったままだ。

 政雄が寝た後に帰宅して、朝早く家を出た可能性はない。

 友達と飲んで帰れなくなったと言って外泊をしたことはあったが、連絡もなく外泊をしたことはこれまではなかった。

 政雄は嫉妬とは違った、得体の知れない重い物を飲み込んだような苛立ちを覚え始めている。

 この不快な気分は容易には体外に排出せず、心の奥底にじわじわと沈殿していく。

 優子は、夫の贔屓目を差し引いても年齢よりは若く見える。

 仕事をしているので身なりにも気を遣っているし、政雄以外・・の人には愛想も良く社交的だ。

 三十年近い結婚生活で小さな諍いはあっても、離婚に至るほどのトラブルはなかったと、政雄自身は思っていた。

 だが、この先一緒にいても、お互いのプラスにはならない状況だということは漠然と理解している。

 一方で、今更離婚をして別々に生活をすることを考えるのは面倒なことだと思うし、今の政雄には離婚する程の切迫した理由は思い浮かばない。

 この頃一人になると頭に浮かぶ堂々巡りの煩悶が鬱陶しい。

 政雄は携帯灰皿に吸殻をねじ込み、先程より足の運びを早めて、通勤通学の人波を避けるように大きく遠回りして、人の温もりを感じない冷えた家に戻った。

 

 優子はその日の夜遅く、日付が変わってから帰って来た。

 政雄はベッドの中でうとうととしていたが、玄関扉の開閉の音で現実の世界に引き戻された。

 優子の履いたスリッパが、遠慮会釈なく音を立ててリビングの方に遠ざかる。

 政雄はベッドから身体を起こしかけたが、直ぐに枕に頭をつけて目を閉じた。

 今、優子に詰問してもなんの解決にならないだろうし、言い争う気力もなかった。

 深夜に優子の言い訳を、金切り声と共に聞く勇気と忍耐力がないというのが正直なところだ。

 ベッドの中で寝返りを打ち、今日は何曜日だったかを考えた。

 土曜日だったら優子は会社に行かずに家に居るだろうから、顔を合わせないようにするのに苦労する。

 混濁した頭の中で、夕方にOBを含めた飲み会の予定があることを思い出し、金曜日なのを確認して少し安堵した。

 今日は優子が出社した後に起きればいい……。

 そんなつまらないことを思い浮かべながら、政雄は暗い穴の中に潜り込むように固く目を閉じた。

 

 寝不足気味の体調の中、勤めていた会社の同期やOBと、政雄にはあまり馴染みのない船橋駅の近くの居酒屋で飲んだ。

 幹事役の同期が船橋に住んでいて、今回の参加メンバーのほとんどが千葉県在住ということもあり、わざわざ東京で飲むことはないと、値段の安い大衆酒場が会場となった。

 政雄は昨年の九月末に退職したので、この飲み会への参加は初めてだった。

 久しぶりに会う同期やOBと、仕事の苦労話や退職後の愚痴を言い合いながら、楽しく時間を過ごした。

 宴が終わり、寝不足気味の政雄は二次会に行くメンバーとは分かれ、船橋から一駅目のJRの西船橋駅で、東西線に乗り換えるために降車した。

 エスカレータでコンコースに上がり、東西線の改札口に向かう。

 だが、政雄は目に飛び込んで来た光景に身体が硬直して足が止まってしまった。

 高級そうなカシミアと思われるコートを着た五十歳位の男と優子が、東西線の連絡改札口の向こうから近づいて来た。

 優子は男の後に改札口を出ると、自然な動作で待っていた男と腕を組んだ。

 政雄には決して見せない笑顔で、横の男にしきりに話しかけている。

 少し酔っているのか、その顔は上気しているようにも見える。

 政雄は優子に気付かれないように、顔を伏せながら歩き始めた。

 優子と男は周りを気にすることなく、仲睦まじく駅を出て行く。

 時計の針は間もなく十時になろうとしていた。

 政雄は二人の後を追おうとしたが、口から大きな氷塊を飲み込まされたように、胃の辺りが冷えて足が思うように動かない。

 金曜日の夜、酔客を含めて混雑している駅構内で立ち尽くしていると、後ろから人がぶつかって来た。

 若い男の舌打ちが聞こえ、政雄は我に返った。

 そして、そのまま人波に流される格好で、たった今、優子と男が出て来た東西線の改札口を通って、確実に誰もいない・・・・・家に帰る自分を嘲笑した。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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