第3話

 心身ともに冷え切ったまま暗渠のような真っ暗な家に帰り、政雄はダウンジャケットを着た状態で、機械的な動作で風呂にお湯をためた。

 政雄は風呂に湯がたまるまで着替えもせず、スマホを手に持ったまま自室のラグの上に寝ころんだ。

 優子に電話をするべきか?

 ラインで何をしているのか?今日は帰るのか?と訊くべきか……。

 だが、そんなことをして何になる?

 優子が電話に出るはずもなく、ラインも既読にはならないだろう。

 今、自分の妻が知らない男と何をしているのか、と気をもんでいる間抜けな男がここにいる。

 そして、現実に目の当たりにした光景を呆然と見送り、それを追求することが怖いと思っている臆病な男も……。

 風呂にお湯がたまったことを告げる電子メロディと女性の声が、今の政雄の耳には苛立ちを掻き立てる。

 

 入浴後、いつもようにベランダで缶ビールを飲みながら一服し、歯を磨いてからベッドに潜り込む。

 酔いはすっかり醒め、頭が冷却されたように冴えて、寝不足なのに睡魔は訪れそうにない。

 読みかけの小説を読んでも文字が移動するだけで、内容が頭に入ってこない。

 枕元のデジタル時計は十一時四十八分を表示している。

 仕方なくベッドから出て、いつにもまして冷え冷えとしたキッチンに行き、普段はあまり飲まない焼酎を食器棚から出した。

 電気ケトルで少しだけ沸かしたお湯をグラスに入れ、焼酎を注いでリビングのテーブルに置いた。

 一旦部屋に戻り、パジャマ代わりのスエットの上に部屋着用のフリースを着込んだ。

 焼酎のグラスとタバコを持ってベランダに出ると、週末の深夜の住宅街は寒空の下、しんと静まり返っていた。

 時折千鳥足で歩くサラリーマンや、談笑しながら肩を寄せ合って歩くカップルが見える。

 近くに建っているマンションは、三分の一程の部屋が室内の灯りをベランダに漏らしている。

 グラスを握る手がかじかむような寒気以上に、頭と胃の辺りが冷えていた。

 優子の男を見上げている時の笑顔が網膜に焼き付いて離れない。

 嫉妬めいた気持ちがないと言えば嘘になる。

 だが、政雄の胸中に渦巻いているのは、優子と見知らぬ男から虚仮こけにされていることに対する憤怒と、それをストレートにぶつける勇気がない己の情けなさだ。

 目撃したことを告げたら、優子はどんな反応をするのだろう。

 否定をするのか、開き直るのか……。

 最近の優子を見ていると、間違いなく後者だろう。

 自分でも夫婦として破綻しかけていることは自覚している。

 だが、だからと言って女房の浮気に寛容になれるかどうかは、また別の話だ。

 終電は十二時半前に駅に着く。

 優子が帰って来るとしたら、駅から徒歩五分の家には途中コンビニに寄ったとしても、十二時四十分過ぎには帰宅出来る。

 終電前の電車だったら、もうそろそろ帰って来るかもしれない。

 優子が帰って来るのを待って、どこで何をしていたかを問い質すか……。

 そう思うそばから、お互い酒が入っている状態での言い争いは避けた方が賢明だという、弱気が頭をもたげてくる。

 明日、いや既に日付は変わって今日は土曜日だ。

 帰宅すれば優子も家に居るだろうから、タイミングを見計らって話をした方が無難だと、政雄は自分を誤魔化すように納得させた。

 ぬるくなった残りの焼酎を飲み干し、冷えた身体で部屋に戻り、微かに自分の体温が残るベッドに潜り込んだ。

 焼酎の酔いは一向に回ってこないが無理やりに目を閉じた。

 だが、玄関が気になって仕方がない。

 そろそろ終電の時間だが、なんとなく今夜は帰って来ない予感がした……。

 

 いつの間にか眠りに落ちていたが、政雄は習慣となっている六時過ぎに、浅い眠りから目が覚めた。

 トイレで用を足し、キッチンで電気ケトルを使ってお湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れてからベランダに出た。

 まだ夜が明けていない空に向かって、政雄はタバコの煙を吐き出し、熱いコーヒーを飲んだ。

 やはり、昨夜、優子は帰って来なかった。

 昨日の男と一緒に夜を過ごし、今は二人で深い眠りについているのかもしれない……。

 不快な想像ばかりが頭に浮かんで、鳩尾辺りが針で刺されたように痛む。

 だが、独りでうじうじしていても仕方がない。

 どういう結果になるか分からないが、優子が帰って来たら問い質してみようと、政雄は一大決心をした。

 まだ長い吸い殻を灰皿代わりの空缶に捨て、散歩用の服に着替えてから出かけた。

 いつもの散歩コースを歩き、早朝から開いているハンバーガーショップで朝食を摂ってから家に戻った。

 八時前だが、玄関に優子の履物はなかった。

 政雄は歯を磨き、顔を洗ってから自室で観たくもないテレビをつけた。

 旅番組をぼんやりと見ながら、浩之に『夕方ヒマか』とラインをした。

 旅番組が終わる頃、浩之から『ヒマじゃないけど遊んでやろうか』と返信が届いた。

 政雄は『家を出る時に連絡するのでヨロシク』と再度送信して、着替え類をバッグに詰めた。

 優子が帰ってきて話し合いをすれば、気まずくなるのは必至だ。

 だが、浩之邸という万一の避難場所が確保出来たので、政雄は少しだけ戦闘意欲が湧いてきた。

 昼前になっても優子は帰宅しない。

 政雄は駅前のラーメン屋に出掛け、長期戦に備えて、半チャン・ラーメンで腹ごしらえをしてから家に戻った。

 玄関を開けると、優子のショートブーツがあった。

 政雄は棒を飲んだように身体が硬直したが、大きく深呼吸をしてからスニーカーを脱いだ。

 手を洗うために洗面所に向かうと、リビングからテレビの音が聞こえてきた。

 手を洗い、時間をかけてうがいをした。

 ゆっくりと時間をかけて、洗面台を雑巾で綺麗にしてから、政雄は胸の中で気合を入れてリビングに向かう。

 急に自分の鼓動が分かるくらいに緊張感に襲われ、胃の辺りが熱いのか、冷たいのか良く分からない感覚になっていた。


「出かけてたの?」

 テレビ画面を観たまま、振り向きもせずに言った優子の素っ気ない言葉が、政雄の怒りに火をつけた。

「毎晩外泊なんて、いいご身分だな」

 精一杯の皮肉を言おうとしたが、陳腐な言葉しか出ず、政雄は臍を噛んだ。

「何よ、その嫌な言い方!」

 優子は政雄の言葉に反応して、素早く戦闘モードのスイッチを入れた。

「そっちこそ、その言い草はないだろ!家庭の主婦が何日も無断外泊して、何を開き直ってんだ」

「家庭の主婦?冗談じゃないわよ!私はちゃんと仕事をしているじゃない!専業主婦と一緒にしないでよ!」

 優子は政雄の脳髄を掻き回す金切り声を放った。

「仕事をしていれば、無断外泊は関係ないって言うのか」

「そんなの勝手でしょ!あんたに許可を取る必要なんてあるの?」

 優子の目が吊り上がってきた。

「許可?当たり前だろ!女房が無断で外泊するのを黙っている亭主っているのか!」

「何が女房よ!何が亭主よ!都合のいい時だけ亭主面しないでよ!あんたのどこが亭主なのよ!家のことなんか無関心だったくせに!」

 優子のキーが一段階上がり、顔色も蒼白になってきている。

 完全に逆上している時の表情だ。

 政雄は一瞬気後れしそうになるが、避難先を確保してあるので、あらん限りの勇気を振り絞って、ここは追及の手を緩めずにすることにした。

「なんだ、その言い方は!家庭に無関心だって?ふざけんな!それは今のお前だろ!俺と話をするでもなく、家で顔を合わせないようにして、俺を徹底的に無視しているじゃねーか!」

「当たり前でしょ!なんであんたに気を遣わなくちゃいけないのよ!今まで好き勝手にしてきて、今更そんなあんたにどうやって関心を持たなきゃいけないのよ!」

「関心を持てなんて言ってねーだろ!」

「じゃあ、いいじゃない。あんたはあんたで好きにすれば?私は何も文句は言わないわよ。だから私のことも放っておいてよ!」

「じゃあ、一緒にいる意味なんかねーだろ!」

「そうよ、一緒にいる意味があると思ってんの?冗談じゃないわよ!」

「どういう意味だ?離婚でもするって言うのか?」

 離婚という禁句にしていた言葉を口にして、政雄は内心しまったと後悔した。

「離婚?してくれるの?だったら早くしてよ!もう、うんざりなんだから」

 案の定、売り言葉に買い言葉で、優子は離婚という言葉に飛びついた。

「そんなに離婚したいのか!だったら最初っからそう言えばいいだろ!」

 政雄は言ってから、更に優子を刺激してしまった自分を呪う。

「言えば離婚してくれるのね?じゃあ言うわよ!離婚して、今すぐ!」

 優子は逆上して般若のような形相になっている。

 政雄はこじれるようなアプローチをしてしまった自分の軽率さを悔やんだ。

 しかし、責めを受けるべきなのは自分ではなく優子の方だと思い直し、政雄は切り札を出す。

「そ、そんなに別れたいのか?り、離婚して、き、昨日の男といっひょ一緒になるつもりか」

 格好良く相手の一番痛い所を突こうと気持ちが急いたため、滑舌が悪く噛み気味なってしまった。

 だが、話の内容は、優子の勢いを一瞬止める効果はあった。

「な、何よ?……昨日の男って」

 吊り上がっていた眼尻が少しだけ下がり、速射砲のように口から迸り出ていた優子の言葉が、油のきれた歯車のようにぎこちないものになった。

「とぼけるな!昨日の十時頃、西船橋駅で男と腕を組んで駅を出て行くお前を見たぞ!」 

 先程の二の舞にならないように、政雄は慎重に言葉を発した。

「な、なんのこと?私が西船橋にいたって?」

 優子の動揺はまだ収まっていない。

 政雄は優子が立ち直る前に、更に一撃を加えようとするが、急所を突く言葉が見つからない。

 仕方なく、破壊力に疑問はあるが、昨夜の目撃談を続けた。

「西船橋にはいなかったって言うのか?高そうなコートを着た男と楽しそうに話をしながら歩いていただろ?酒のせいだけじゃなく、顔が上気していて見てられなかったぞ」

 政雄は皮肉たっぷりに言ったが、破壊力不足だけでなく、相手に反撃の機会を与える、隙だらけの科白になってしまった。

 百戦錬磨の敵は態勢を立て直し、その隙を狙って反撃してくる。

「楽しそうだって?見てられなかったって?自分の女房が知らない男と腕を組んで歩いてて、あんたなんで黙ってるのよ!それでも男なの?亭主だって言えるの?」

 さっきまで自分で否定していた亭主なのかと訊かれ、政雄の頭は混乱した。

「ふざけるな!さっきは、何が亭主だ、何が女房だって言ってたのはそっちだろ!お前こそご都合主義じゃねーか!」

「そんなの言葉のアヤじゃない!黙って見過ごしておいて、今更私を責める権利があんたにあるの!」

 優子の超利己的で支離滅裂な主張は、政雄の理解の範疇を超え、異星人からの恫喝のようにしか聞こえない。

 政雄は自分の妻に、怒りよりも得体のしれない恐怖を感じて、一瞬、頭の中がホワイトアウトになった。

 何故、この女はこの期に及んでも自分を正当化できるのか。

 自分のしでかしたことを俺のせいにできるのか。

 どこをどう見ても、優子に大義名分はないはずだ。

 それなのに、自分は悪くないと思いこめる思考回路はどうなっているのだ……。

「だったら、先ず謝るとか、釈明するとかしてみろよ。女房なんだろ?」

 政雄は目の前の女に対する恐怖心からくる混乱を鎮めるように、冷静に言葉を発した。

「なんで私が謝らなければならないのよ!何も疚しいことなんかしてないのに!」

 昨夜の目撃談を告げられた時には一瞬怯んだかに見えたが、優子はそんなことも忘れたかのように、いつもの口調に戻った。

「疚しいことはしていないだって?じゃあ、昨日はどこに泊ったんだ?」

 政雄は食ってかかりそうな勢いの優子を、さすがに持て余し気味になったが、今後のことも考え、肝心なところの確認をした。

「会社の友達のところよ!」

「その前もか?」

「そうよ!離婚したばかりの友達が、一人だと寂しいって言うから付き合ってたのよ!」

「なんていう人だ?」

「あんたの知らない人よ!一々うるさいわね。もういいでしょ!風邪気味だから部屋で休むわ」

 優子は言うべきことは言ったという態度で、自分の部屋に行こうと立ち上がった。

 その太々しさに満ちた態度を見て、政雄の全身の血が脳に向かって奔流となって駆け上った。

「ふざけんな!まだ話は済んでねーだろ!そんな答えで俺が納得すると思ってんのか!」

 優子の肩を押さえつけるようにして座らせ、政雄はテーブルを掌で思いっきり叩いた。

「なにすんのよ!触んないでよ!」

 優子が眦を吊り上げて政雄を睨みつけた。

「こっちだって触りたくねーよ!昨日の男はなんなんだって訊いてんだ!」

 ジーンと痺れる右手を握りこむようにして、政雄は優子に詰め寄った。

「あんたには関係ないでしょ!それを聞いてどうすんのよ!」

「関係ない?関係ないってどういう意味だよ!お前が言う女房が、夜、仲良く男と腕を組んで歩いているのを見ても亭主は黙っていろって言うのか!」

「疚しくないって言ってるでしょ!」

「だったら、どこのどいつか言えよ!言えない訳でもあるのか?俺と離婚して、そいつと一緒になるつもりなんだろ!」

 政雄は逆上していて、またも言ってはいけない言葉を口にしてしまった。

「あんたってホントにクズね!そんな妄想ばかりしてるから嫌なのよ!」

「妄想?妄想じゃないだろ!事実だろ!違うんならちゃんと分かるように説明してみろ!」

「しつこいわね!あんたの妄想通りだったら、なんだって言うのよ。そうなったのは誰のせいよ!」

 優子は心底うんざりしたという表情だが、強い口調は変わらない。

「俺のせいだって言うのか……。どんな理屈でそうなるんだ!とにかく認めるんだな、そいつとのことを」

 政雄は逆上している自分を落ち着かせるように、意図的にトーンを抑えて優子に訊いた。

「そうよ!もうあんたにはうんざりなのよ!もう私のことは放っておいてよ!あんたも好き勝手にすればいいじゃない!」

 そう言って、優子は今度は政雄に摑まらないように素早く立ち上がり、脱兎のごとく自分の部屋に逃げ込んだ。 

 優子が部屋に鍵をかける音を聞いて、政雄は椅子にへたり込むように座り、肺の中の二酸化炭素を全て吐き出すように、絶望的なため息をついた。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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