第十二話「芽生えた信仰心」


 「……? 俺、死んだのか?」

 あれから、深い眠りに落ちていたらしい。――蘇芳すおうは朦朧とする意識の中、自分の体が温かい膜に包まれているような……あるいは、母親の腕に抱かれているとさえ思える感覚に身を委ねていた。

 狐の親子は一定期間を過ぎると「子別れの儀式」を迎え、子狐は母狐に追い出されて独り立ちしていく。そんな狐界では当たり前の通過儀礼を行ってきた一匹である蘇芳は、母の顔も、匂いも、一切覚えていないというのに。


 蘇芳は今、自分がどうなっているのかさえ全く状況が掴めずにいたので、まだ完全に目覚めていない、ぼんやりとする頭を必死に動かしながら考えを巡らせた。

 「(……温かい、初めて感じる空気だ。凄く安心する。匂いも……これは以前、参拝してきた貴族の娘が纏っていたこうに似てるな。鼻が利く俺でも好きだと思えるような良い香りがする。ああ、気持ちいい。誰かが俺の頭を撫でて―――)……?!」

 誰かに頭を撫でられている。――その現状に、蘇芳は重いまぶたを見開き、垂れていた耳と尾を逆立てて顔を上げた。

 背後に光を纏ったその人物は、逆光により顔こそ見えなかった。しかし、蘇芳は自分が狐姿であること、そして今、その人物に膝枕をされているのだと把握した。


 「?!」

 困惑は増し、体も強張ってしまったことで動くに動けなくなった蘇芳は、その人物の膝に乗せられたまま挙動不審に周囲を見渡した。

 「おや、起きたのかい?」

 そんな様子に気付いた当人は、穏やかな声色で光を徐々に弱くしていく。―――次第に見えてきた景色からして、すっかり夜も更けていた。塚の横に添えられた提灯達がぼんやりと光っているだけで、辺りはとても暗い。月も雲に隠されていたが、後光とも似た輝きを消しても尚、その人物の金色に輝く髪が主張していたので、蘇芳は思わず目を細めた。

 膝に置いて抱きかかえるように片腕を回し、もう片方の手で自分の頭を撫でているその人物の正体を蘇芳がはっきりと認識した時、彼は自分の口から心臓が飛び出るのではないかと思った程だ。

 「あ、あんたは……」

 「私は宇迦之御魂神ウカノミタマノカミ稲荷いなりで構わないよ」

 「(やっぱりそうだ……!!)」

 『稲荷大神』という神名を得ている神々の中でも、中心に座する須佐之男命スサノオノミコトの直系。つるばみが左腕となる予定の、全国に拡大しつつある稲荷神社に祀られているとても名高い神である。

 そんな位の高い相手に、自分は膝枕をさせているのか――と、恐れを感じた蘇芳は咄嗟に飛び起きる。即座に人型に化け、少しばかりの距離を取った。

 「?! 傷が、無い……?」

 ふ、と。先程まで感じていた筈の全身の痛みが消えていることに気付いた蘇芳は、首を上下左右に動かして自身の体を見た。目を凝らして見ると、薄っすらと傷跡こそ残ってはいたが、あれだけ大量に流れていた血は止まっている。まるで、もう何年も昔に出来た古傷のようで、真新しいものは見当たらなかった。

 「君の右耳は既に千切られていたようだから、完全に再生することは出来なかったんだ。ごめんね」

 「い、いや、そんな……」

 神特有の輝きを放っていたかと思えば、自身の力不足を嘆いて申し訳なさそうに謝罪の言葉まで伝えてくる。そんな稲荷に、蘇芳は思わず拍子抜けしてしまった。

 神という存在はもっと、傲慢で、自信家で。我が物顔で眷属達を引き連れては、面倒事は受け入れない。下の者達を顎で使っては命令し、自分達は安全な場所でのうのうと酒を嗜んでいるような―――まるで人間が「私は偉くなった」と勘違いしているようなものだ――と、そう蘇芳は考えていたし、悪友の薄氷ウスライからもそういう存在なのだと聞いていた。

 しかし、今対面しているこの『稲荷』と呼ばれる『宇迦之御魂神』を見る限り、嘘はなく、取り繕った様子も見られない。それどころか、とても自然体という言葉が似合うように感じられた。

 何より、先程の包まれるような安心感は、蘇芳の中にある猜疑心を紐解くのに充分な要素であった。

 「……」

 蘇芳がどう返答すべきか悩んでいた、そんな時。


 「蘇芳! 良かった、目を覚ましたんだな!」

 向き合う稲荷の後ろから、人型に化けたつるばみが駆け足でやって来た。

 「げっ、橡……な、何でお前までここに」

 「何でって、ここは宇迦之御魂神様の社だぞ? 次期側近の俺が居なくてどうするんだ」

 「あ……」

 この時、ようやく蘇芳は自分が下社(現代で言うところの『三ノ峰』)付近まで降りてきたことに気が付いた。青鈍あおにび達による追い打ちを危惧した咄嗟の判断だったのだろう。神名を得たこの地の、なるべく地位の高い神の目にも留まりやすい社や塚のある場所まで無意識に逃げ込んだらしい。

 「(結局、困った時は神頼みかよ……情けねぇ)」

 蘇芳は己の脆さを自覚して俯くと、自嘲的な笑みを浮かべた。

 「蘇芳、どうした?」

 「!」

 名を呼ばれ、蘇芳は急いで顔を上げる。橡を見ると、彼の腕に巻かれた包帯代わりの布に気が付いた。中には固定用の副木ふくぼくが入っているようだ。

 「それ……」

 「ああ、これか。お前から一発もらった時に少しばかり骨にヒビが入ったらしい」

 「! っ、悪い……」

 「ははは! 真剣勝負なんだ、これくらい覚悟の上さ。それより蘇芳、『神通力』も『妖力』も使っていないのに凄い力だったな。俺でも押し負けるかと思ったよ」

 「……そんな大層なもんじゃない。喧嘩を吹っかけられても、軽くあしらうつもりでやり返したら相手に大怪我をさせちまう。俺は、力加減が上手く出来ないんだ」

 「! ああ、なるほど……」

 「いつも相手側の言い分だけが出回っているから、稲荷様も俺もおかしいとは思っていたんだが……そういうことか」

 「?」

 稲荷と橡はようやく腑に落ちた様子だったが、蘇芳は何のことやら分からず首を傾げた。


 「……さて、それじゃあ本題に入ろうか」

 突然―――橡の表情が真剣なものへと変わったので、蘇芳は思わず息を呑んだ。

 「本題?」

 「あれだけの傷は、ただの喧嘩で出来るものじゃない。なあ蘇芳、一体誰にやられた?」

 「! だ、誰でもいいだろ」

 「蘇芳」

 「……!」

 ギラリと光った橡の狐目は、同じ狐である蘇芳でも身震いをしてしまう程に禍々しいを放っていた。

 「もう一度聞くぞ。誰にやられたんだ?」

 「……昼間、お前に群がってた青鈍あおにび達だよ」

 「!」

 「青鈍はお前に負けた俺を嘲笑いに、取り巻き二匹を連れてきたけど……俺が言い返したら……その、『神通力の恐ろしさを知れ』って……」

 「分かった、ありがとう」

 表面上こそ穏やかな笑みを作る橡だったが、目は一切笑っていない。橡は稲荷に一礼すると、踵を翻してその場を去っていった。蘇芳は、彼の解放した霊格を昼間に直接浴びていたことから、その恐ろしさに思わず毛が逆立つ。

 「(あいつら、終わったな)」

 自分の手で仕返しできないことは残念だ。だが、いい気味だ――と、蘇芳はほくそ笑むのだった。



 下社に残された蘇芳と稲荷。暫くの沈黙の後、一匹と一人は再び向き合う形で話し始めた。

 「蘇芳、君は優れた狐であるというのに、どうしてそのような無茶をするの」

 「そんなこと、あんた―――いや、稲荷……様には関係のない話でしょう。俺は優れてなんてないですよ。俺みたいな野良同然の狐になんて構ってないで、他の真面目な狐達を見てやればいいじゃないですか」

 その言葉を聞いた稲荷は、自身の着物の袖を左手で引き、ゆっくりと右手を上げた。

 叩かれる!――生前の経験から咄嗟にそう思い込んだ蘇芳は、反射的にビクリと体を跳ねさせて強く目を瞑った。―――しかし、その右手が振り下ろされることはなかった。

 「!」

 稲荷は蘇芳の頭を優しく撫で、微笑んで告げた。

 「そう自分を卑下しないでおくれ。君の本来の力も、私には見えているのだから」

 「けど! 俺は、稲荷山ここではただの落ちこぼれで……!」

 「潜在能力だけじゃない。生前の行いを含めて、私は君を買っているんだ。同胞のために、よく恐怖や痛みに耐えたね。これは、とても誇らしいことだよ。君は悪い狐でも、落ちこぼれでもない。……それに、認められたいと思うのならば、もっと強くなりなさい。それは物理的な力や、『妖力』だけの話ではないよ。君が普段怠けている『教養』も、『礼儀』も、立派な心の強さに繋がるのだからね」

 「心の、強さ……」

 「心の強さは『神通力』開花に通じる。『妖力』との違いは此処にある」

 「『神通力』……」

 「もっと強くなって、私の隣においで。まだ次期・眷属の後継は百年以上は先なのだから。左大臣左腕の枠は橡で埋まってしまったけど、右は君のために空けておくから」

 「俺が、逃げ出すとは思わねぇ……んですか……?」

 「思わない」

 「!」

 「君は必ず私の隣に来る。蘇芳、君なら大丈夫だよ」

 「……っ」

 稲荷の嘘がない言葉と美しい微笑みに、蘇芳は見惚れるばかりであった。

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