第八話「弓を引く右腕」


 七月上旬、休日のとある日―――午前八時半。

 東雲は、朝食を作るべくキッチンにて冷蔵庫の中から材料を取り出していた。


 「東雲、東雲!」

 「んー?」

 背後から、寝間着ねまきとして使用している東雲のTシャツを着た稲荷が、てちてちと裸足で床を鳴らしながらやってきた。

 「今日は其方そなたうてくれた衣服が着たい」

 「浴衣じゃなくていいのか?」

 「うむ。Tシャツとやらは、夏に着るのであろう? 今着ずにいつ着るのじゃ」

 「……夏だけのものでもないんだけどな」

 東雲は、冷蔵庫の内部から視線を逸らすことなく苦笑した。

 ゴールデンウィークに東雲から服を買ってもらった稲荷は、人間が着用している現代の衣服に初めて袖を通した。以降―――すっかり気に入ってしまったらしい。

 「一着じゃ寂しいだろう」と、出掛ける度にせがんでくるのを許容しているうち、今では人の子並みの衣類が自宅の小さな衣類ケースに収納される始末となった。

 着々と増えていく稲荷の服に、その月の東雲の財布は悲鳴を上げたものである。



 朝食を終えて荷支度を済ませた東雲と稲荷は、伏見稲荷大社へと向かった。

 仕事がある平日も、朝から稲荷を預ける形で大社に立ち寄ってこそいるのだが、たまには長居すればいい――と左京や紫苑も言ったことから、休日の今日は東雲も参拝することにしたのだ。

 「稲荷様!」「東雲!」

 稲荷の姿を確認した右京が、いつものように狛狐の姿を解いて人型へと変わり駆けてくる。少し遅れて、左京も同様に続いて東雲の名を呼んだ。

 「稲荷様、おはようございま……―――!」

 稲荷の側までやってきた右京は、挨拶を言い終える前に立ち止まった。普段の平安装束とは打って変わった稲荷の現代服を見て、思わず顔が強張る。

 「右京に左京、おはよう」

 「おはようございます、稲荷様。東雲もおはよう!」

 「おう、おはよう」

 そんなことは露知らず、稲荷はいつも通りに自身の眷属達へ挨拶し、それに答えるように左京も変わらない笑顔を向けていた。

 「……稲荷様。そのお召し物は、五月に東雲が買ったものですよね」

 今まで沈黙を貫いていた右京が、しどろもどろな様子で問うた。

 「うむ! この生地にこの裾の長さは夏場にぴったりだからのう」

 「お前らに改めてお披露目したいってさ」

 「そう、でしたか……」「とてもお似合いですよ」

 右京はどこか納得がいかない様子なのに対し、左京は新鮮だと言いたげに明るい表情を見せた。二匹の反応こそ正反対だったが、東雲にとってはそれもすっかり日常となって馴染んでおり、想定内の範囲だったので特に気にする様子もなかった。

 「東雲、今日の予定は?」左京が尋ねる。

 「仕事の調査は先日済ませておいたから、今日は一日伏見稲荷大社ここに居ようと思ってるよ」

 「何だよ、お前もずっとここに居る気か。滞在費払ってけよ」

 右京が悪態を吐く。

 「悪かったな! ちゃんと参拝はしていくつもりだよ!」


 東雲達が本日の予定を確認し合っている中、稲荷が何かを思い出したように顔を上げて左京を見た。

 「のう、左京。紫苑と結は実家の母屋に居るか?」

 「いえ、二人なら『玉山稲荷神社』の方で作業をしていますよ」

 「そうか、ではちょっと行ってくる! ……っ、わ!」


 「! 稲荷……!!」


 東雲の叫びも空しく、稲荷は踵を翻して駆け出すと同時にパンツスカートの裾を踏んでしまった。ころりとその場に転がる幼い神に、眷属の二匹も顔を真っ青にして駆け寄る。

 「い、稲荷様!!」「ご無事ですか……!?」

 「稲荷、大丈夫か?」

 「うむ。……あ、」

 稲荷が上体を起こすと、皮膚に小さな痛みが走った。―――転んだ拍子に、腕を軽く擦りむいてしまったらしい。擦れた箇所には、小さな赤い液の粒がいくつか浮き出ていた。

 「おぉ……。これが、『穢れ』というものか」

 真っ青な顔であたふたしている右京と左京を他所に、稲荷は自身が負った初めての傷に関心を示していた。

 「問題ない、掠り傷じゃ。……すまぬ、少しはしゃぎ過ぎてしまったの」

 「し、消毒……!」

 「念のため、しっかり手当てしておきましょう!」

 「大丈夫じゃ。紫苑達に用もあるから、玉山稲荷へ行ってくる。ついでに手当てもしてもらってくるから、安心せい」

 落ち着かない様子の二匹は稲荷を社務所の方へ連れていこうと考えたが、当の本人は冷静に告げた。

 「ですが……っ」

 「稲荷様お一人だなんて、そんな……!」

 「ここは境内だし、五分ともかからぬのだから心配はない。すぐ戻る」

 右京が顔を歪ませて稲荷を見つめたが、当の本人は立ち上がってパンツスカートに付いた砂利をはらい、今度はゆっくり歩いてその場を後にした。




 「……今まで、こんなことはなかった」

 「?」

 「! ……せ、右京」

 稲荷がその場を離れた後、右京は拳を強く握り、俯いたまま呟いた。

 言葉の意図をいまいち汲み取れていない東雲が首を傾げた一方で、察した左京が止めに入る。―――しかし、右京の中に渦巻く感情やわだかまりは膨れ上がり、これ以上留めておくことが出来なくなっていた。

 「いつもの稲荷様の衣類なら、たとえ転倒されたとしても傷なんて負わせなかった。東雲お前が余計なことしなきゃ、こんなことにはなってない……!」

 「それは……悪かったよ。そこまで考えが至らなかった俺の注意不足だった。何かあってからじゃ遅い、それは俺もよく分かってたのに……本当にごめん。でも、人間の服を着ることは稲荷が望んだんだ」

 「んなわけねーだろ……稲荷様は、人間をどれだけ好きでも一線を引いてた。お前がそそのかしたからに決まってる!」

 「俺が出会う前のことは分からないけど。……人と同じものを着て、食べて、生活して―――それが、今の稲荷が望んでることだろ」

 「何を知った口を……! お前が稲荷様を語んな!!」

 「〜〜〜だから! 稲荷を思うなら、もっと冷静に考えろって言ってんだよ…!」

 「っ!!」


 「右京!!」

 「!! ……った、」

 頭に血が上った右京が東雲に掴み掛かり、思いきり地面へと押し倒した。左京の声を遮り、跨るように馬乗りになる。

 早朝と言えど、ここは伏見稲荷大社。境内には参拝客も多く居たために、何事かと周囲に人だかりが出来始める。―――しかし、そんなことなど気にする様子もなく、右京は狐独特の睨みをきかせて東雲を見下ろすと、口を開いた。

 「……ずっと、気に食わなかったんだよ。霊感体質ってだけで、自分だけが不幸を背負ってると思い込んでる。甘ったれで、世間知らずな人間お前が……!!」

 「っ、んなこと……俺だってとっくに自覚してんだよ! ……ぐっ!」

 起き上がろうと体を起こすが、掴まれていた胸倉を今一度強く押された。―――左京と比べると細めの体格をしている右京であったが、伊達に稲荷の直眷属で右腕という立場に居るわけではない。その力の強さは想像以上で、思わず東雲の体はバランスを崩したが、完全に背が地面につかないよう咄嗟に肘をついた。

 「……あの時、お前に稲荷様を預けたのが間違いだった。俺がもっと目を凝らしていれば! 力があれば……!! お前なんかに頼らなくたって……」

 「そん……っ! ……右京、お前」

 右京の表情が陰り、声が小さくなっていく。東雲は初めこそ言い返してやろうと声を上げたが、彼の表情を見て返す言葉を失った。その時―――


 「東雲!!」


 手当を終えた稲荷が、紫苑と結を連れて小走りで東雲達の元へと駆けてきた。

 「……右京、うぬは何をしておるのじゃ」

 「っ、稲荷様……」

 自身の心酔するあるじに真顔で見つめられ、ビクリと右京の肩が跳ねた。たじろいだ様子で東雲の上から退くと、恐る恐る稲荷へと近付く。

 「由貴ゆたか、立てるか」

 「あ、ああ……」

 紫苑が差し伸べた手を取り、東雲は起き上がる。

 「……右京。お主は、少し頭を冷やせ」

 稲荷は俯いたまま、真面目な声色で右京に向けて告げた。

 「! しかし……っ」

 「人間に手をあげるなど! 神仏の眷属として恥を知れ……!!」

 「!!」

 稲荷が声を荒げて叱咤したことに、初めこそ驚いた様子を見せた右京であったが。直ぐに俯くと、唇を噛み締める。

 「………そう、ですか」

 「?」

 両方の拳を握りしめ、絞り出すような声で告げた右京―――彼の様子がいつもと違うことは、流石の稲荷も薄々ではあるが気付き始めていた。

 彼の言葉の意図を探るべく、首を傾げて覗き込むように右京を見る。

 「……稲荷様は、やはり東雲と出会ってから変わってしまわれた。人間臭い……日を追うごとに人間のニオイに近くなっていること、お気付きですか?」

 「! ……何を言うかと思えば。常日頃から共に生活し関わっていれば、神とて人間のようなニオイにもなるであろうよ」

 「……っ! ―――俺は!! 人間を守るために眷属になったわけではありません……!!!!」

 「!」

 「待て右京! 戻って来い!!」

 左京の静止も聞かず、右京は白狐の姿になると稲荷山の方へと走っていった。


 「稲荷……」

 「……放っておけ。いずれは戻ってくるじゃろて」

 「しかし、稲荷様」

 「右京があのままでは、わたしは他の四柱神に面目が立たぬ」

 「「……」」

 東雲と左京、そして紫苑と結は困惑した表情で稲荷を見たが、本人は決して視線を交わらせることなく、右京の向かった稲荷山とは反対の方角を見つめながら淡々と告げた。―――ともなれば、東雲達に言えることはもうこれ以上ないのである。

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