第七話「各々の境界線」


 左京に手を引かれながら、つばくら人気ひとけの少ない裏道を通って稲荷山を下っていく。

 「……今度は、あなたの大好きだった稲荷寿司を作って持って行くわね」

 渡すのは社務所でいいのかしら?――そう言って、燕は首を傾げた。

 「実は俺も、あれからすっかり作り方を覚えてしまったんだ」

 「まあ、そうなの?」

 「東雲には、菖蒲あやめの作った稲荷寿司にそっくりだと言われたよ」

 「そう、東雲くんと知り合いだったのね! ……ふふ、嬉しいわ」

 始めこそ、上手く話せる自信さえなかったのだが。実際は、何十年もの月日を経て再会した二人の会話が尽きることはなかった。

 離れていた時間を埋めるように、左京と燕は他愛のない話で笑い合った。


 稲荷山を下り切って、休憩所である「啼鳥庵ていちょうあん」付近までやってきた。―――不意に左京が歩みを止めたので、少し後ろを歩いていた燕もつられて立ち止まる。

 「……菖蒲」

 「なあに?」

 左京は前を見据えたまま、真剣な声色で告げた。 

 「ここでお別れだ」

 「えっ?」

 繋いでいた手を解き、振り返った左京は燕を抱き締めた。

 「俺を受け入れてくれて、想ってくれて……本当にありがとう」

 「ツルちゃ……っ!?」

 途端―――左京が放つ白狐の力に当てられ、反応をし終えるよりも先に燕の意識は遠退いていく。体の力が抜けて下へと崩れる彼女を、左京は両腕で抱き留めた。

 「菖蒲がこの先も笑顔で居られるように、俺はずっと見守っているから」

 愛してる。―――そんな一言さえ、伝えられないが。左京は、最後まで締まらない自分に苦笑した。腕を燕の肩と膝下に回して横抱きにすると、道沿いにある『本日営業終了』の立て看板を確認し、「啼鳥庵」の中へと入っていった。



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 「……さん、……らさん!」

 「……め、……ばめ!」

 「ん……」

 誰かが自分を呼んでいる気がする――と、燕はぼんやりとした頭ながらに聞こえてくる声へと耳を傾けた。今だ眠気に襲われ、瞼は殆ど閉じたままである。

 「―――燕さん!」「つばめ!」

 「っ!」

 聞き慣れた声にハッとして、燕は大きく目を開いた。そこには、東雲と稲荷が心配した様子で顔を覗き込んでいた。


 聞くに、「啼鳥庵」の中で椅子にもたれ掛かり、眠っていたらしい。

 燕は体を起こすと、ゆるりと首を左右に動かして周囲を見渡した。テラス越しに見える八島ヶ池はちしまがいけ池畔ちはん作庭さくていされた庭園や、稲荷山を含む山々の山容が美しい。

 「私ったら、何を……」

 「さきょ……ええと。稲荷を迎えに行く時に、友人から連絡があったんです。俺の住んでるアパートの大家さんが倒れているって」

 嘘を吐くのが苦手で下手な東雲だったが、今回は左京と燕のためだと考えるようにして、少しばかり偽った経緯を述べた。


 あの後―――左京は稲荷を介して、仕事を終えて伏見稲荷大社へと迎えに来た東雲に、「啼鳥庵」まで来るようにと連絡を取った。深い眠りに落ちている燕を椅子に座らせると、使いの狐達に毛布と救急箱を持ってくるよう伝え、彼女の掌にある怪我の処置を今一度丁寧に行った。

 東雲達が来るまでの間、左京は今だ冷えている彼女の体を毛布で包み、片時も離れず寄り添っていた。

 その場には、東雲と稲荷に連れられ、右京や仕事を終えた紫苑と結もやってきた。一連の流れを聞いた彼らは、燕が「眠っていたことにする」という案で一致した。とはいえ、掌の怪我を見れば夢でなかったことなど一目瞭然だろう――と、その場に居る誰もが思ったのだが。意外にも、これに異を唱えたのは右京であった。

 「左京と燕二人の想いまで、夢にする必要はないかと」

 普段なら言わないであろう右京の一言に、その場に居たみなが目を丸くしたが、もっともな意見だと頷いた。


 「……つばめ、体調はどうじゃ?」

 稲荷が尋ねた。

 「大丈夫よ、ありがとう。でも、何だか不思議な夢を見ていたような……」

 そう言った矢先、燕は自身の手元に違和感を感じて視線を落とす。

 「―――! (夢じゃ、なかった……?)」

 一時的な手当てではなく、掌はしっかりと処置されていた。染み込んでくる消毒液らしき液体にピリリと傷口は痛んだが、止血も兼ねているのか、ガーゼの上からは包帯が強めに巻かれている。燕は、優しくそれに触れた。

 「(ありがとう、ツルちゃん)」

 左京の意図を汲み取り、目を伏して口角を上げた。

 「……燕さん、立てますか? 暗くなったら危ないし、そろそろ行きましょう」

 「夕食の準備もまだであろう?」

 「そうね、帰りましょうか」

 燕は穏やかに笑うと、東雲と稲荷に支えられながら椅子から立ち上がった。

 「のう、つばめ。その『』とやらは、良いものであったか?」

 「お、おい稲荷……!」

 『夢』ではなく、『不思議』を問うた稲荷に焦る東雲だったが、一方の燕は胸に手を当て、左京の姿を思い出す。白狐姿の彼は、恋人だった当初とはまた違った風貌であったが、中身は何も変わっていなかった。……少しばかり、意気地なしな所も含めて。それすらも愛しいと思える程に、燕が好きな『不思議』で溢れていた。

 「―――ええ、とても。目が覚めてからも、心がずっと温かいのよ」



 東雲達がアパートへと帰って行く後ろ姿を、楼門前で右京と左京は見つめていた。

 「……良かったのかよ」

 「ああ」

 「あのまま、眷属を辞めて婿養子にでもなっちまえば良かったんじゃねーの」

 「それは過去の話か? それとも今の話か?」

 「どっちもだよ、ばーか」

 悪態を吐く右京に対し、左京はニヤリと笑うと腕を組んで考える素振りをした。

 「うーん。……でも俺は、稲荷様のだからなあ」

 「……チッ、お前は本当にいけ好かねぇ優等生だよ」

 「ははは。……いいんだ。俺は俺のやり方で、菖蒲を守っていくと決めたから」

 「……そうかよ」

 東雲達がやってきた後―――左京は燕に姿を見られないよう、その場を一足早く離れていたので、相棒である右京が自分達のために意見してくれたことを帰り際にコソリと稲荷から聞いたときは、大層驚いたものだった。

 「ありがとう、右京」

 「それはもう先刻聞いた」

 「確かに言ったな。でも、ありがとう」

 「フン。……それより、あの場には何が居た?」

 「!」

 「燕が怪我までしてたってことは、ただの神隠しじゃなかったんだろ」

 感謝の言葉を鼻であしらったかと思えば、右京は真面目な表情へと変わる。情報共有を怠るなとでも言いたげな鋭い視線で、左京を真っ直ぐに見つめた。

 ただ姿を眩ませるだけの神隠しなら、稲荷の側近である左京の力を持ってすれば即座に見つけ出せた筈だ。―――しかし、燕が怪我をするくらいともなれば、余程の手練れだろうと右京は考えた。

 何やら伝えることを渋っていた様子の左京は眉間の皺を深くして考え込んでいたが、決心したのか口を開いた。

 「……確証はないぞ。だが、恐らくは―――」

 「! …………そうか。それは厄介だな」

 左京の言葉を聞いた右京の表情には、一瞬こそ陰りが見られた。しかし、即座に立て直し、懐に入れていた『鍵』に触れる。―――それはまるで、右京自身が『鍵の狐』であることを今一度認識するための、みそぎのようであった。


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