第四話「鴉の来襲」


 「わたしを連れて逃げろ」

 目の前の子供は、自分に向けてそう告げた。――東雲の思考は一呼吸置き、再び動き出す。


 「に、逃げろって……」

 「時間がない」

 「ちょっと待て、話が全く読めない!」

 「もう、限界じゃ……」

 服にしがみ付いていた子供の顔から、血の気が引いていく。手の力が徐々に抜け、寄り掛かる様にして東雲の胸へと頭を預けてきた。

 「えっ、おい! しっかりしろ――」


 ビシッ、


 東雲が子供を抱き上げて声を掛けたと同時に、上空で大きな音が空全体に響いた。反射的に、上半身を捻って振り返る。東雲は目を疑った。

 顔を上げた先―――何もない筈の空間に、ヒビが入っていたのである。


 背後に見える外拝殿とその奥にある楼門がずれて見え、何とも不気味な光景だった。

 更にその罅の部分は、何者かによって外側から追い打ちをかけられているようだ。その証拠に、上空からのドン、ドン、と乱暴な打撃が大地まで届き、震動を起こしている。

 音を立てて徐々に空一面へと広がった罅は、バキンと大きな悲鳴を上げて割れた。その衝撃で落ちてきたガラスの破片達は、地面に着く前にすーっと消えていく。



 「やっと壊せたぜ、金将きんしょうの兄貴!」

 「よくやった銀将ぎんしょう。まったく、余計な手間をかけさせおって」

 割れた空間の外側は昼間のように明るく、雲も太陽もはっきりと見えた。

 恐らく、あれが自分の元居た世界なのだろう。――東雲はそう確信した。逆光にこそなっていたが、割れた外側の上空にはからすのような黒い翼を羽ばたかせて立っている人型の輪郭が二つ見えた。

 東雲は目を細め、それらを凝視した。雲が早々と移動して、割れた空間外の太陽を隠すことで、それらの姿が明白になっていく。


 山伏姿の青年が二人。

 一人はつるぎの峰を肩に預け、もう一人は錫杖を持っている。一見して普通の人間にも見えるが、明らかに違う点があった。浮上していることは勿論、彼らの背には鴉らしき羽が生えており、一定のリズムで動いている。更によく見ると、足首から下は猛禽類のような鉤爪であった。

 「……わたしが、結界を張り続けることができなくなったからだ」

 東雲の腕の中で、子供は息も絶え絶えに声を出した。「鴉天狗め」と。

 「んん? ……はは! 見ろよ兄貴、こりゃ傑作だ! ついに人間にまで頼らなきゃ保てねぇときた! ざまあねぇな稲荷!」

 剣を持った青年―――銀将が、東雲と子供の姿を認識すると「ぎゃははは」と荒々しく笑った。錫杖を持っている青年―――金将は、それを静観していた。

 東雲は、咄嗟に子どもを見た。

 「稲荷って……」

 「そこの人間。その者は今でこそ幼子おさなごなりだが、人ならざるものぞ」

 金将が声を発すると、銀将もそれに続く。

 「どうせ、狐に摘ままれた一般人だろ。おい人間! 大人しくそいつを渡せば、俺たち鴉天狗がお前をこっちの世界へ連れて帰ってやってもいいぜ」

 自らを鴉天狗と名乗った二羽が、上空から取引を持ちかけてきた。

 「そうは言っても……」

 東雲は困惑し、子供と鴉天狗達を交互に見た。子供は息こそ上がっていたが、不敵な笑みを浮かべている。そのまま空を見るや、今出せる精一杯の声量で言い放った。

 「うぬら鴉天狗に、このわたしが捕まるとでも思うてか」

 子供は続ける。

 「わたしは稲荷大神イナリオオカミ宇迦之御魂神ウカノミタマノカミだ。見くびるなよ、妖怪ども」

 " 宇迦之御魂神 "―――燕が言っていた神と同じ名だ。東雲は目を見開き、子供を凝視した。


 「……あ? 上等だコラ」

 「舐められたものだな、我々も」

 自らを宇迦之御魂神と名乗る子供の煽りに、鴉天狗の顳顬こめかみにも青筋が入る。

 「(これはマズイぞ……)」

 そう察知した東雲の顔は、自身に縋りついている子供よりも真っ青だ。

 「今日こそ、そのスカした顔を泣きっ面に変えてやんよ……!!」

 「そのまま掻っ攫ってくれる!!」

 罵声と共に、東雲と子供に目掛けて鴉天狗達は急降下した。

 「うわ……っ!」「来るぞ」

 しがみ付く子供の一言で、想定される衝撃や痛みに備える。東雲は突然のことに困惑こそしていたが、咄嗟に子供に覆い被さる形で強く抱きしめた。

 「!」

 東雲の行動に、子供は驚いて目を見開いた。―――反対に、必死だった東雲は強く目を瞑る。そのため、同時に楼門前で鎮座していた阿吽の狛狐が光ったことにさえ気付かなかった。


 彼らの背後から眩い光が照らされ、ガキン!と鉄同士の激しくぶつかり合う音が二度響いた。

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