本文
窓から差し込む柔らかな日差しは、まるですべてを肯定するように全身を照らす。
少しの暑苦しさが、全身を弛緩させ、心地よい磔刑のようにベッドに体を縛り付けてくる。
「びっくりするほど平和だ」
寝返りを打とうとすると、掛布団がうまく追従しない。
寝違えない程度に首だけを動かして確認すると、リクオウムガイのノーチラスが足元で丸くなって触腕をひくひくと痙攣させ、夢遊を楽しんでいる。
その姿は、先程までの自分を体外離脱して眺めているようで、起こすにはあまりに忍びなく、布団を手繰るほどの気力も湧かなかった。
しかし、このままでは布団を奪われた吹きさらしの状態で、三度目の二度寝を迎えなければならない。
日が落ちて冷え込む前に意識を失わなければ。
「惰眠を貪るのもいいが、そろそろ金を稼がないか?」
長い黒髪とロングスカートを重力に逆らうように垂れ下げているベルフェゴールが、コウモリのように天井に張り付きながら、死んだ魚のような澱んだ目で見下ろしてきている。
「お金があっても本当のしあわせは見つけられないんだよ」
目隠し代わりに枕を顔に押し当てて、面倒な提案を拒否する姿勢を表明する。
ベルフェゴールは、天井にぴたりと張り付いた黒革のローファーを持ち上げ、つま先でシーリングライトをつまらなそうにつつく。
「そういう方向性の堕落もいいけど、そうじゃないのよ。もっと際限ない欲望を求めていこうよ?」
「もうこれで十分です」
「赤貧というより清貧なのよ。それは」
「ぜったいに働かないぞ」
「こっちがそれじゃあ退屈なのよ」
宙を舞う羽毛のように悪魔は、ひらひらと天井から舞い降り、枕元に両足をそろえ着地すると、ドスンと音を立てて胡坐をかいて座り込んだ。
「緻密な設定、正確な考証、豪華なキャストで送られるSF映画があったとしよう」
「はい」
「そこから紡がれる物語がラブロマンスだったとしたら?」
「……期待外れ?」
彼女は腕を組んで首を縦に振る。
「でもね? 一度、面白そうと思った以上、エンディングまでにすべてを帳消しにするなんか考えさせられる演出とかド派手な爆発がが来ると思いたいじゃない」
そういうと膝に手をつき、眉を下げ、口をへの字に曲げている。
「このとおり。なんとか働いてはもらえないか」
普段の尊大さの欠片もない、体中に苦虫を這いまわしているような顔が、ちらりと目に入った。
「いつもみたいに魔法でなんとかしちゃえばいいんじゃないの?」
すると先ほどまでの顔は一瞬でどこかへ行き、真顔になる。
「悪魔を舐めるなよ。何年契約取るだけの仕事に従事してきたと思ってる」
抑揚のない発声で放たれた言葉は地獄の激務を想像させた。
「仕事熱心なのはいいけど、そういう姿勢はこっちの勤労意欲をどんどん削っていくんだけど」
悪魔はするりと立ち上がると、諸手を挙げて首を傾げる。
「果報を寝て待つののも性に合わないから映画館でただ見でもしてくる」
そういうと、冷蔵庫のドアを念力で開け、缶ビールを手元まで浮遊させる。
そして、禍々しい煙と光を放つ魔法陣を、指で空中に描き、手を伸ばすとそこからコンソメ味のポテトチップスの袋を取り出す。
「どうやったって最後には労働からは逃れられないんだからな」
最後は捨て台詞を吐くと、半透明になり壁をすり抜けて消えていった。
「ただ見どころか持ち込みまでするなんて悪魔なんだ……」
足元からノーチラスの寝息だけが聞こえる部屋に、玄関のカギを開ける音が響く。
ドアが勢いよく開けられる金属音と共に、夜勤明けのカオルが帰宅する。
気づいたころにはノーチラスはすでに飛び起きて飼い主の足元に巻き付いている。
「あれ、ベルちゃんはどこいったの」
ノーチラスを抱き抱えながら、カオルは辺りを見回す。
「映画を見に行くって」
掛布団に包まりながら、簡潔に伝える。
仕事帰りのカオルは、汚れたシャツを脱ぎ、つややかなキチン質の外殻をあらわにしている。
関節の薄膜から覗く、ヘモシアニンの働きで青く染まった血管と筋肉が、惚れ惚れする肉体美を誇っていた。
「ありゃ、またビール減ってる」
つるりとした上半身と対をなすように、冷蔵庫にかけられた腕のとげは鋭利な美しさをもっている。
「そろそろビール代の分くらいは出してもいいんじゃない」
呑気で低音の声色は、まったく急かす様子がなく、むしろ払わなくていいといっているようであった。
もしかしたら罪悪感を抱かせる方法かもしれないが。
「そういえば今日はみんなで映画を見る日かなんかじゃなかったっけ」
カオルはそういうとスマートフォンを取り出し、カレンダーアプリを確認し始めた。
たしかに言われてみれば、そんな約束をしていたかもしれない。
そんな会話を待っていたかのように玄関の呼び鈴が鳴る。
「ごめんくださーい。アンナでーす」
流石にこれ以上、寝続けるのは難しいと判断し、布団から這い出て玄関へと向かう。
ドアを開けるとそこには金髪碧眼の美少女が立っていた。
「カオルさん、ごめんない。仕事終わりでそのまま来てしまって」
確かにアンナの体からは煮込まれた豚骨とニンニクの香りがした。
「べつに気にしないから上がって上がって」
上下灰色のスウェットに着替え中のカオルは、玄関から飛び出そうとするノーチラスを抑えながら返事をする。
「なんだったらシャワー使ってもいいよ」
カオルは脱皮した抜け殻の放置された洗面所を指さす。
「すみません。最近シーリングが下手って来ちゃってるみたいで、分解洗浄以外がちょっと不安なので」
そういうとアンナは、唐突に自分の両目に向かって指を差し込むと、そのまま引き抜いた。
「見てください。ほらこんなにレンズが結露しちゃってる」
アンナの右手のひらの上の目玉がこちらを見つめる。
なるほど、確かにレンズに水滴による曇りがある。
「それじゃあ髪だけでも洗ってみたらいいんじゃない?」
ギトギトした金髪を指さすと、その手があったかと、アンナは掌上の目玉を丸くした。
「すみません。それではちょっとこれを持っててください」
するとアンナは眼球をこちらに押し付けてくる。
渡された目玉は、ひんやりとしたスーパーボールといったさわり心地で思わず握りしめたくなった。
「頭を外すので少し視線、こっちにください」
眼窩がぽっかりと空いた顔で、にっこりと笑顔を向けると、両目を掲げるようにとジェスチャーをする。
「これでいいかな?」
バンザイのかたちで手中の瞳孔をアンナへと向ける。
「あ、もう少し右で……。そうです。ありがとうございます」
位置が定まるとアンナは両手を頭へと掛け、おもいっきり首を捻じる。
骨が折れるような鈍く甲高い音が響いたと思うと、ネジ頭のように、さらに首を回し続けていく。
最後にはコルクが抜けた時のような音が聞こえ、頭が胴体から完全に切り離された。
「それでは、少しシンクをお借りしますね?」
埴輪のような虚ろな生首は、そう言葉を発すると、台所へ向かっていった。
慌てて自分も、プロフェッショナルなカメラマンのように、目玉を抱えてあとを追う。
「私の髪はアクリル製なので、やっぱり台所洗剤が一番いいんですよね」
そういうと、アンナの切り離された頭部を、首のないボディが丁寧に洗い始める。
しばらく流しで生首が洗われている様子を撮影していると、肩にしっとりとした生あたたかい感触が伝わってきた。
「すっごーい。ホラー映画みたいね」
振り向くと、そこにはサダコが立っていた。
「忙しそうだったから、勝手におじゃましてまーす」
肩に載った触腕を見つめると、青黒い肌に細かなとげのついた吸盤が並び、黄緑色の粘液が垂れていた。
おそらく、こっちのほうがホラー映画としての質は高いのではないだろうか。
「あれぇ? ベルちゃんはいないの?」
「映画にいったってさっき聞いたけど」
「え? 今日はみんなで映画鑑賞の日じゃありませんでした?」
まったく、騒々しい。
今日はゆっくりと夜まで寝る予定だったというのに。
「そういえばビールが減ってるときは大体不機嫌なときだけど、もしかして喧嘩でもしたの?」
カオルはいつもの呑気な調子で、鋭い刺すような質問をしてくる。
こういう時は、だいたい真実を伝えた方がいいと相場は決まっている。
「そろそろ働けって言われて、いやだといったら出ていきました……」
「……それは。当然なのではないでしょうか」
アンナは髪の水分を絞りながら答える。
「まあ、向こうも大人げないだけだとは思うけど、無職宣言もどうかと思うわよ」
サダコの目からも軽蔑が読み取れる。
やはりこうなってしまったか。
どう考えても無職の方が、人道に反する悪魔よりも立場が悪くなってしまった。
「まあ、謝って仲直りでもしてきたらいいんじゃないの」
これはつまり探して来いということなのだろうか。
と、質問する間もなく、戸外までカオルに押しやられてしまった。
さて、映画館にいくとはいっていたが、いまはどこにいるのだろうか。
あてもなく、終わりのない散歩の気分で探すしかあるまい。
しかし、改めて街へ繰り出してみると、いやに活気がるものだ。
みんな何かしら目的をもって動いている気がする。
自分のようにふわふわとした人間なんてどこにもいないのではないだろうか。
それとも、生物学的な意味で、根本的に現生の人類とは違うのだろうか。
哲学的な問いかけは、あてもなく動く足の動きを速め、気が付けば、在りし日に狩りの住まいとしていた、ジメジメとしてなぜか墓場のような雰囲気のある小汚い公園の前まで行きついていた。
やはり、哲学的な考えが浮かぶようなときは、ゲシュタルト的ななんやかんやで、その場の空気に流されたときということなのだろうか。
とりあえず、ベンチに座り込み、夕日がビルの谷間に落ちていくの眺める。
日差しが消えると、先程までは心地よくブランコを揺らしていたそよ風が、急激に体温を奪い始める。
気分はもう極地探検のようであった。
もはや見つかるまいという諦めが、体温の低下とともに体を支配しる。
そして、なにげなしに公園の中心のふと塗装の剥がれた遊具に目をやる。
あっ、いた。
象と豚の形をしたスプリング遊具のあいだに、やたら黒みがかった塊がある。
死にかけのコウモリのようなそれはベルフェゴールに違いなかった。
「おーい。いきてるか」
のそりと動いた塊は、きらりと猫のように光る眼をこちらに向けてくるだけで、あとは微動だにもしなかった。
なぜ、わざわざ自分のことを地獄に落とそうと躍起になっている悪魔の心配をしなければならないのかは知らないが、ここまで痛々しくされれば良心の呵責以前に、なにかしなければ世間体が悪すぎる。
「あんまりつれなくしてごめんって」
もそりと塊が動くと、腕を伸ばして手招きをする。
指示されたとおりに近づくと、塊が覆いかぶさってくる。
たった数時間のあいだにどれだけ乱れたのであろうか。なぜか彼女の髪の毛は油でギトギトしており、熟した果実のようなアルコール臭を漂わせ、あろうことか口の周りには青髭が生えていた。
「そんなにやる気を失うほどのことなのか?」
浮浪者と化した悪魔は、目の周りを真っ赤に腫れぼったくさせてしくしくと泣き始めた。
「だって、せっかく自由に人間をいじくりまわせると思ったら、なんにもうまくいかないんだもん」
こんな情けない奴に人生を左右されるのはまっぴらごめんだ。
「もう邪魔してくるヤな奴らは全員いなくなってやっと好き勝手出来ると思ったらこれだよ。なんで全部うまくいかないのよ」
あまりの不憫さに思わず肩に手をかけ、背中をさすってしまう。
「おーよしよし」
「お願いだからちょっとはいうこと聞いてよ」
「はいはい聞きますよ」
「約束してくれるの?」
「約束はできかねるけど善処はしますよ」
「ほんとに善処してくれる?」
悪魔に約束などしたらどうなるかということは、一般常識である。
あえて言葉を濁して、カオルの部屋に戻ることを提案する。
「みんな心配してるんだからいったん帰ろうね」
「うん……」
幼子のような言動を取る酔っぱらいの手を引いて帰路に着く。
いったいどうしてこうなったのだろうか。
部屋に戻ると、3人はすでにこちらのことなど忘れて酒宴に興じていたようだ。
テレビ画面には往年の名作スラッシャームービーの度を越えたグロテスクな映像が映し出され、この場の狂気を可視化しているようだ。
「見つけてきましたよ」
小さく丸まったベルフェゴールを床に投げ出すと、すぐに高らかな寝息を立て始めた。
「おう! よくみつけてきた! 褒めてつかわすぞ!」
安い焼酎の瓶を片手にアンナは我を失っている。
なぜロボットなのに酒に酔えるのかはわからないが、酔えるのだから仕方ない。
きっと、精神というものは0と1で構成されていても、次第に壊れていくものなのだろう。なるほどこれがシンギュラリティというものか。
「ふたりがいなかったからマジでヤバかったんだから。さっきなんてアンナちゃん、いきなり穴という穴にサダコちゃんの腕を詰め込み始めてさ」
想像を絶する醜態が晒されていたことを知り、酒というのは実に恐ろしいものであるとわからされた。
「ところでサダコさんは今どこに」
「いまトイレで胃の中身を全部吐き出して悪酔いの原因を調べてるんだって」
「なるほど科学者らしい酔い方ですね」
「なに盛り下がってんだお前ら! くらえロケットパーンチ!」
取り外された拳が飛んでくる。
「なんでみんなこうなっちゃうんですかね」
「仕事のストレスは人を簡単に壊すのよ」
遠い目をしたカオルの瞳には、バランスを崩さずに堪えている驚異の精神力を感じさせられた。
なるほど、ストレスとはここまで人を変えてしまうのか、できればこのまま無職をつづけられないだろうか。
死体のように転がる悪魔とロボット、延々と鳴り響く吐瀉音、そして遠い目をした家主と、あまりにも凄惨な光景を目の当たりにし、現世ほどにひどい地獄などありはしないのではないかと思った。
そして僕はノーチラスを抱え、このまま寝室へと退散することに決めたのであった。
とりあえず、明日からがんばればいいやと。
マン・アンド・アフター・ヒューマン @hatobanikki
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