第21話 花嫁は新天地で生きていく(2)
「すみません、もう大丈夫です」
「おや、もう終わりですか? もっと甘えてほしかったですけど」
「……また今度、甘えます」
「絶対ですよ?」
リーリアも本当はずっとこのままでいたい。しかし真昼の屋外で、ライはこのあと訓練や公務だってある。たぶん今だって、リーリアのために無理して時間を作ってくれている。
「じゃあ、わ、わがまま言ってもいいですか」
ライの目が輝いた。なんでも言ってください言う彼に、じゃあ……と両手を握り合わせてお願いする。
「今日の夜、一緒に寝てくれませんか?」
「……。……。……。エッ?」
ライの声が裏返り、続いて沸騰したように顔を赤くした。かちん、こちん、と両肩を歪に揺らす。
「寝るときなら、公務や訓練の時間の心配をしなくても大丈夫でしょう?」
「アッ、ハイ、それは、そうっスね……」
「それに犬さんの姿のとき、ふわふわじゃないですか! ぎゅっと抱きしめて眠ってみたいんです!」
「……。……。ア、ハイ、イヌのね、ハイ」
「いいんですか!?」
「ウン、イイデスヨ」
ライの声はやけに固かった。
長時間の変身って難しかったりしませんか、と訊いてみても「変身が解けてしまったら大問題デスネ」とどこか上の空な返事だった。
「今日の夜訪ねますね」と約束してくれて別れた。後ろ姿はとても疲れて見え、やはり忙しいなか無理をしてくれているのだなと思った。
いつもなら既に入眠している時刻。本を読みながらライを待っていると、カチカチと扉を叩く音がした。「ライさん?」と呼びかけると「わふ」と犬の声が返ってくる。
「待ってました。ありがとうございます」
黒犬はまっすぐベッドに上がって伏せをした。リーリアの方に顔を向け、寝ないのかと問うている。
「寝ます!」
少しは可愛くしたいと思って、リーリアは薄い水色のネグリジェを着ていた。胸元がゆったり開いているデザインである。日中よりも肌の露出が多い。
黒犬の隣に寝そべり、後ろからぎゅっと抱きしめた。温かくて、ふわふわで、良い匂いがする。
「苦しくないですか?」
「ワフン……」
萎れた鳴き声である。人語を話せないのは不便だ。リーリアはてっきり室内で変身するのだと思っていたのである。少しお茶でもしながら話せたら、と用意もしていた。
「疲れてます、か?」
黒犬は小さく頷いた。リーリアは毛並みを整えるように頭や背中、横腹を撫でる。最初はビクッと黒犬の体が緊張したが、次第に大人しくなった。
「おやすみなさい、ライさん」
ぎゅっと抱きしめて瞼を閉じた。
途方に暮れたような鳴き声が聞こえた。
翌朝、ライは黒犬の姿のままリーリアの部屋を出た。朝に弱いのか、足取りは重そうだった。
リーリアは今までに無く気持ちのいい朝を感じる。一晩中ふわふわで気持ちよくて幸せだったのだ。ライのおかげだろう。
(また一緒に寝てくれないかなぁ)
迎えに来てくれたラミーと一緒に食堂に行く。今日はいつもより多めに朝ご飯をとった。
「なんだか今日はいつにも増してお加減が良さそうですね」
気分の良さが顔に出ているらしく、なんだか照れる。ふふ、と笑った。
「昨晩、ライさんが一緒に寝てくれたからですかね」
ラミーが目を丸くして動きを止めた。リーリアの背後にいたメイドの一人は、「えええっ!!」と、驚きの声を上げてこちらを振り返る。
「えと、ラミーさん?」
「はぇ……えっ、そんな、いやまぁ、結婚予定、だし……、うん」
「ぎゅってすると、あったかくて、ふわふわで、気持ちよく寝れました」
「そんな詳しく言……って、ふわふわ?」
「ライさん優しいから、私の我が儘を聞いてくれて。長時間の変身魔法ってどれくらい大変なのでしょうか。疲れているのに、申し訳なかったかも……」
「変身魔法……。あれですか、ライさんの大犬の姿ですね?」
「? はい」
少し離れたテーブルに座っている兵士が、「オオ、神よ」と呟いている。どうしたのだろう。
「どうしてそういうことになったのか、教えていただけますか?」
ラミーに訊かれ、リーリアは自分からお願いしたのだと説明した。ラミーは片手で口を覆いながら、すごく疲れた目をしている。
「なんと……むごい」
ラミーはそれだけ言って目を閉じた。突然どうしたのだろう。首を傾げていると、今度は後ろから両肩をがっちり掴まれた。後ろにいたメイドの一人である。
「リーリア様、それはいけない。いけませんわ」
「えっ」
あまり喋ったことのない彼女からも言われ、リーリアはそわつく。
「乙女の会、しますわよ」
そうして朝食後、リーリアはラミーたちメイド三人と一緒に東棟の居間に行った。というか連行である。しかしここの主人はリーリアであるので、とりあえず紅茶を用意した。
一口飲んで顔を見合わせた彼女たちは、至極真面目な顔をして頷きあった。
「コホン。リーリア様は、こちらに嫁ぐにあたって初夜の作法など聞かれていますか?」
頷くと、どう聞いているのか詳しく教えてくださいと言われる。
「旦那様に身を預けなさい、と。怖いかもしれないけれど、子どもを成すには必要な行為ですと。破瓜の痛みは覚悟しなければなりません……とか」
「具体的に何がどうなってどうするのか、は知っていますか」
「えっ……と、絵が描いてある本を……渡されました」
「きちんと知ってはいるんですね」
ラミーたちは拳を口にあてて考え込んでいる。
リーリアが何も知らない子どもだと思われていたのだろうか。
「子どもを作る行為は、それが目的じゃなくてもすることだってある、というのは知っていますよね?」
「……子どもを作ろうとしていないのに、するんですか?」
「「「するんですよ!!!」」」
これだ! という顔をしてメイド三人が叫ぶ。
「えっ、……え!? そうなんですか!?」
驚いて紅茶のカップをカチャンと置く。
「ああ……外界との接触をほぼ断ち切って過ごされていた影響がここにも」
「こういう教育大事でしょうよ」
メイドたちが目頭を押さえている。
「あの、でも……子どもを作ろうとしていないのに、どうしてする必要があるんですか?」
「あー……好きだと思ったら、そういう気持ちに? なったりするんです。というか、男の危険性については伯爵家で言われなかったんですか?」
「悪漢については何度も繰り返し気をつけるよう教えられています。最悪、急所を狙って逃げろと」
「なんだか偏ってません?」
「でも待って。リーリア様ってウィリディスの由緒ある伯爵家のご令嬢よ。結婚するまで箱入りよ。そりゃそうよ」
ああ、と彼女たちは勝手に納得した。
「あのぅ、どうして突然こんなことを聞くんです?」
「リーリア様、あの、落ち着いて聞いてくださいね。相思相愛の付き合ってる男女が、夜、一緒に寝て欲しいとお願いするというのは――一般的にそういうお誘いをしていると思われても仕方ないですよ」
「……」
「っていうか、むしろ誘ってます」
メイド三人は真剣な顔をしてリーリアを見つめた。
リーリアは声にならない叫びを上げ――クッションを抱きしめてソファに倒れ込んだ。
●
朝、食堂に行くと周囲の視線が生暖かく優しく気持ち悪かった。
カウンターで料理を取っているときは、コックが出来たての特製オムレツをライのトレーに勝手に置いた。ライの好物ではある。
「お疲れ様、侯爵」
「え? あ、うん? おはよう?」
フ……と憂い顔で微笑むコックに挨拶を返す。一体どうした。何故『お疲れ様』なのか、まだ朝だぞ。
ゴトンと椅子に座って食べていると、ダンテと執務室付きの文官が食べかけのトレーを持ってわざわざ同じテーブルにやってくる。
「おはよう。何か問題でもおきたのか?」
「問題がおきたのはお前だろ、ライ……」
ぽむ、と肩に回された手がやけに苛ついたので雑に払った。
「ライさん、今さっきラミーさんたちがお話に連れていったので、たぶんそこで世の中の男女のABCを教えてもらうと思います」
「同じ男として、お前のこと尊敬するぜ、ライ」
ダンテは茶化しているのか真剣なのか分からないが、部下の方は悲愴な顔をしていた。一体何の話なのだ。
「好きな女の子に一晩、犬の姿で抱かれるなんて……苦しかったよな」
「は?」
きらり、と白い歯を見せて微笑むダンテにライは理解した。食堂のこの空気を理解した。昨夜の苦悩と喜び、痛ましいもののように見られている羞恥。
咄嗟にパチンと指を鳴らして、食堂中を氷漬けにした。三秒で元に戻したが。
――しばらくバカンスに行きたい。
昼食は部屋でとる、とリーリアからの伝言をラミーから聞いた。そりゃそうなるだろう。
「ライさん、リーリア様はそういう意味合いがあると知らず、今は悶え恥ずかしがっています」
「だろうね」
「すみません。あの……皆さんに知れ渡らせようとした訳じゃないんですが、食堂での会話を聞かれてしまって」
「事故ですしね」
「リーリア様も、ライさんに申し訳ないことしたんじゃないかって、落ち込んでいます」
「一番恥ずかしいのは多分リーリアですよね」
「お二人とも辛いですね。その、皆、応援してるというか微笑ましく思ってるんです、よ?」
「はは」
最近は威圧してくることが多かったので、気遣わしげなラミーは珍しい。気にしないで、とライは送り出した。
ライも今日の昼食は食堂をやめている。ハーブガーデンの東屋でもそもそ食べながら、どうしたものかと考えた。
(もう、犬の姿で一緒に眠ることもないかもしれない……)
実はそれが残念だった。
最初こそ、まさかという期待や高揚を泥団子に詰めてぐっちゃぐちゃにされたような気分だったが、犬の姿で抱きしめられるのは案外幸福であった。悪くなかった。
(むしろこれから避けられるかもしれないなー……)
はぁ、と溜め息がでる。それが一番怖い。
男女の関係について疎いというのは分かっていたし、想像もついていた。そりゃあ意識されるのもやぶさかではないが、リーリアのペースで、ゆっくりでいいのだ。
それを伝える前に今回の出来事が起こったのである。
リーリアが今使っている客間から、侯爵夫妻の私室へ移動することも相談したかったが、なんだかタイミングが悪い。
ぼんやり空を見上げていると、背後から足音がした。
「ら、ライさん……」
遠慮がちなリーリアの声である。今日はここで魔法の実施訓練をする予定だったので、来てくれたことにほっとした。
振り向いたライと目が合うと、リーリアは泣きそうなくらい頬を赤く染めていた。
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさい……!」
「いや、恥ずかしかったのはリーリアさんの方でしょう」
「そそそそそういう意味があるって知らなくて」
「はい。分かってましたよ」
リーリアはライの隣にすとんと座った。おそるおそる、ライを見る。
「ら……ライさんは、そういうことしたいと思ってる、のですか?」
なんてことを聞くのだろう。ニコ……と儀礼的な笑みを貼り付けた。
「さ、伯爵家に挨拶に行く日程を決めましょうか。先方に連絡もしておきたいですし」
「あっ! ややややっぱり、そうなんですね……?」
リーリアは両手を握りしめてぷるぷる震えている。それがどういう感情なのか分からないが、可愛いなと思う。
「リーリアさん、男はだいたいそういうものだと理解した方がいいですよ」
「誰でも」
「はい、誰でも。でも、僕たちは僕たちのペースでいきましょう? 周りが何と言おうといいじゃないですか。僕は元から、ゆっくりいこうと思っていましたよ。その……昨日お願いされたときは少しビックリしましたが」
「私のペース……」
「はい。結婚してからも、少しずつでいいじゃないですか。僕は待ちますし、リーリアさんも気にしないでいいです」
本音である。
「はい……」
リーリアの震えが落ち着いた。
「あの、じゃあ……また、犬さんの姿で、一緒に寝てくれますか?」
「えっ。ハイ、いいですよ」
ライにもそういう欲がある、と知ったリーリアは、もう犬の姿でも同衾を拒否するだろうと思っていたので意外だった。
「一緒に眠る、予行練習にもなるし……」
「……」
「ちゃんと追いつくから、待っててくださいね」
きゅ、と上目遣いでこちらを見上げるリーリアの瞳は輝いており、ライは掠れた声で「ハイ」と言うのが精一杯だった。
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