第11話 花嫁は天空へ赴く(11)

 足の速さには少し自信があった。嫌な場面から逃げたり回避したりするためには脚力が必要なのである。ウィリディスにいたときに痛感したため、少しはトレーニングしてきたのだ。

城内ですれ違う人たちが驚くのも気にとめず、リーリアは城を出た。森の中に続く小道に入るとベルルがやって来て、ようやく足を止める。

 ラミーのことは好きだ。しかし、信用しているとかしていないだとか、考えたこともなかった。リーリアのこれまでの人間関係は、互いが互いに一方通行ばかりだったのだ。


(自分でも分からずに、ラミーさんに一線を引いているのかも……。ううん、ラミーさんだけじゃなく、みんな。ライさんたちや、ウィリディスの屋敷の人たち、……家族にだって)


けれど、リーリアの何がその一線なのか、自分では分からない。


 ととととと、とベルルが右肩まで駆け上がってきた。キュイと鳴きながら頬ずりしてくれる。焦っていた気持ちが少し落ち着いた。

 しばらくぼんやり歩いていると、小道から逸れたところに赤い煌めきが見えた。目を擦っても消えない光にどくんと心臓が鳴る。不思議と惹きつけられてやまない光だ。


「ベルル、あれはなんだろう。陽射しで果実が光って見えるのかな」


 さくり、と小道を外れて草地に進んだ。近くなるほど煌めきは強くなる。また一歩踏み出したその瞬間、視界の全部が白い靄に包まれた。おかしい。

 リーリアはその場に立ち止まった。前後左右を見渡すも何も見えない。そうしているうちに靄が一斉に消えた。しかし眼前の光景はまるで違っている。


「ここはどこ……? ねぇベルル、って、ベルルがいない!?」


 リーリアがいる場所は、夢のように美しいところだった。地面は艶々した草地、一メートルに満たない狭い幅の川がおだやかに流れ、色とりどりの花々が咲き、ぽつんぽつんと季節を問わず果樹の実がなっている。透き通るように青い空に、緑の地平線、きらきらした白い靄が霞のようにたなびいている。


(……ここは人の住む領域じゃない)


 身震いがするくらい肌でそう感じた。これが精霊種の世界だろうか。でも何故突然ここにいるのか分からない。禁じられた柵の向こうは越えていないはずだ。

 じっとしていてもどうにもならないので、リーリアは川を辿って歩くことにした。そうすると突然、小さな畔が現れる。そこには二頭の一角獣がいた。彼らはリーリアをじっと見た後、ゆっくり近寄ってくる。


 聖なる一角獣は優しさも持ち合わせているが、それと同じくらいに気性が荒くもある。流石に怖くなり背後を振り返ると、来た道は白い靄で包まれていて何も見えず、畔から出られなくなっていた。


(どうして!? 閉じ込められている?)


 内心脅えているリーリアをよそに、近づいてきた一角獣はリーリアの肩に数度頭を擦りつけ、身を引いた。彼らなりの挨拶なのかもしれない。


「……こんにちは」


 一角獣は嬉しそうに笑った、気がした。そして彼は横を向き、その背にはウサギに似た生き物がいる。長い耳が二股に分かれてひらひらしており、耳に似た尻尾も長かった。精霊種だろう。ウサギは赤いハート型の何かを手に持ち、それをリーリアに渡そうとしている。


「ありがとう……?」


 林檎に似た果実のようだった。甘くかぐわしい香りがする。ウサギはリーリアに「食べて!」と勧めている。


「……食べていいの?」


 聞くと、ウサギも一角獣も頷いた。頭のなかではとてつもなく怪しいと分かっているのに、体は勝手に食べようとしている。なぜだろう、抗えない魅力があるのだ。まるでそうあるよう体に本能が植え付けられているようで――


「リーリアさんッ!」


 ひどく切羽詰まった声が響いた。リーリアは寝起きに頬を叩かれたように覚醒する。いつの間にか、手に持っていた赤い果実がない。叩き落とされたそれは地面に落ち、トロリと溶けるように崩れていた。


「……ライさん?」


 どうしてこんなところに、と驚いて振り向く間もなく、リーリアはライに抱き寄せられた。彼は酷く汗をかき、息を切らしている。

リーリアの手ごと、果実を叩き落としたのは彼だ。


「なんで――なんでこんなところに! 焦りました、本ッ当に焦りました。しかもこんなもの食べそうになって――ああもう!」


 ライに両肩を掴まれ揺さぶられている。必死の表情にリーリアは呆然とする。


「ライさん? どうしてここに……、その、ここはどこですか?」

「どうしてって、僕が聞きたいですよ! ここは境界の向こう、精霊種の世界です! そしてさっきリーリアさんが食べようとしていた果実は《あわいの心臓》――人間と精霊種、二つの世界のあわいの者になってしまうものです! ……普通は、食べるよう勧められはしないんですが、精霊種があなたをそちら側に引きこもうとしているんです。こちら側にはどんどん帰って来れなくなる」


 どきりとした。地面に落ちた赤い果実は、目を奪われるような赤色をして今なおリーリアの気を惹いてやまない。ごくりと唾を飲み込んだ。


「どうしてまだ惑わされてるんですか!」


 痛いくらいに肩を掴まれ、再度はっと目が覚めた。

ライは怒っている。悲しんで、焦っているのが伝わってくる。


「……分かっていますよ。あの実に惹かれるのは、ここに、現実世界にいたいと思う気持ちが稀薄である証であると。そういう気持ちを作り出しているのは、僕らの環境だって」

「ち、違」

「リーリアさんには酷いことをしている。本当に、酷いことをしている。でも行かないでください。ベルクリスタンをもっと見て欲しいし、本好きのあなたに本の布教だってまだ足りない。それに僕は、リーリアさんのことをもっと知りたい」


 ライにまっすぐ射貫かれて、リーリアは腰がぬけそうだった。ひぇ、と思わず呟いたのを聞いたライは、さっと視線をそらす。


「……ラミーだってそうです。半泣きですよ彼女。あなたを追いかけて森の方まで来たら、突然あなたの後ろ姿が消えたんですからね。探しても探してもいない。僕のところに泣きついてきて捜索に出ました。でも見つからない……もしかしてと思ったときベルルが現れました。ここのことを教えてくれましたよ。ベルルはあいつらにとって邪魔者になるだろうから弾き出されたんでしょうね」


 ライは一角獣たちを睨んだ。大きく開いた瞳の瞳孔が、獣のように縦に伸びた。そんなはずがあるわけ無いのに、ばちばちと小さな稲妻まで走っているように見える。


「も……森で赤い光が見えて、なんだろうと思って近寄ったらここにいたんです。今の私は、どこかに消えてしまいたいなんて思っていません」

「それでも、無邪気に《金色持ち》を欲しがる精霊種にとっては、十分な隙があった。つけいれられる隙があったのも事実でしょうが――彼らの時間、日没後でもなく、禁足地でもない場所での拐かしは、僕は見過ごせない」


 ライを取り巻く空気が異様になっていく。彼の瞳は金色に変わり、足下から上へと風が流れ、落ち着かなくなるようなざわざわした気配に鳥肌が立つ。それは精霊種も同じだったようだ。二頭いる一角獣が互いの角を合わせ、片方をカキンと折った。ウサギが慌てて拾い、リーリアに捧げた。受け取ったそれは確かな質量を持ち、銀色に虹色の光を纏っている。


「詫びの品に一角獣の角ですか。良いでしょう。……帰りますよ、リーリアさん」


 ライの気配が普段の穏やかなものに戻り、リーリアの腕を引く。


「ライさん! 私、ここでの生活はとても居心地が良くて、幸せです。本当です。皆さんもすごく良くしてくれて、申し訳ないくらい。だって私、何もしていないもの。皆さんがくれた大使という肩書きで、安穏な生活をさせてもらっている。侯爵様の婚約者でもなんでもないのに、本当にこれでいいのって不安になるくらい」


 ライがリーリアの手を離した。痛みを耐えている顔をしている。

(どうしてライさんがそんなに苦しそうな顔をするの)

 リーリアは咄嗟にライの手首を両手で掴んだ。


「少し前なら私はあちら側に行こうとした、かも、しれません。けど今はここにいたいです。ベルクリスタンの自然がとても好き、お勧めの本だって読みたいし、ラミーさんと仲良くなりたい。……ライさんのことも、知りたいです」

 冷たそうで、優しくて、時折ひどく思い詰めた顔をするライさんのことが、気になる。

 ライは顔を片手で隠すように覆った。


「……リーリアさんは」

「はい」

「……いえ、なんでもないです。帰りましょう、皆心配している」


 そんな途方に暮れたような声をして、なんでもないことはないだろう。しかし問い詰められるような雰囲気でもなく、リーリアは小さく頷いた。



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