第10話 花嫁は天空へ赴く(10)
蛍椿の話をした翌日、午に部屋まで迎えに来てくれたライが弾んだ声で言った。
「リーリアさん、東棟の厨房ですがようやく使えるようになりましたよ!」
「えっ、もう使えるんですか?」
「はい。お昼を食べたあとに一緒に行きましょう。材料も一応用意してあるので確認してください」
「ありがとうございます」
食堂に行く道すがら、ライには毎日「困ったことはないか」「要望はないか」と聞かれている。今日もそうだ。心配性なのかもしれないと、最近思う。
「皆さんにはよくしていただいています。こんなにゆっくりさせてもらっていいのか、不安になるくらい。私にもできるお手伝いはありませんか?」
「お気になさらず。今はゆっくり馴染んでください」
「……ライさんって、実は甘い方ですか?」
「まさか! 部下からそんなの言われたことないですよ。そうだリーリアさん。エプロンとかってお持ちですか?」
ふるふると首を振ると、ライがぱぁっと微笑んだ。まるで少年のようで、リーリアはぱちぱちと瞬く。
「そうですか。いえ、なんでもないです」
なんでもなくはないだろう、と思ったが、年上のライが可愛らしく見えたので黙っておいた。初対面のときは冷たいイメージの人だったが、彼はふとしたときに色々な表情をみせてくれる。
(私も、笑えているかな……)
リーリアは陰気で無表情だと言われてきた。確かにその通りだったと、今ならリーリア自身そう思う。
食堂に着き、ダンテと合流する。リーリアのメインは今日もサンドイッチだ。ライとダンテはリーリアの数倍食べる。リーリアの父親がこんなに食べているところは見たことがなく、武術をする人はたくさん食べるのだなといつも感心する。
「それじゃ、リーリアさんを東棟の厨房に案内してくるから。訓練には少し遅れる」
「はいよ。リーリアちゃん、お菓子作ったらちょーだいね!」
「もちろんです。正直な感想教えてくださいね」
「おっけ~」
ダンテはばちんとウインクし、リーリアは自分もウインクを返そうか逡巡したのち手を小さく振った。するとダンテは面白がって投げキッスも寄越した。隣にいるライから小さな舌打ちが聞こえる。一瞬空耳かと思った。
「相手にしなくていいですよ。軽薄男ですから」
「ああーん? 堅物に何を言われてもなァ?」
「さ、行きましょう」
「じゃーねぇリーリアちゃん。今度俺と城下の街でデートでもしようね」
「えっ、えと」
「返事しなくていいです。さ、行きましょう」
ライに片方の手首をそっと取られ、廊下を突き進む。彼が少し苛々しているのが伝わる。リーリアに対してではないことは分かるので怖くはないが、ライがそうなることが意外だった。
(一応、侯爵の婚約者という肩書きもある私にああいうことを言ったから、かな?)
半ば引っ張られるように小走りで歩き、東棟を出たあたりでライが突然止まった。まるでようやく火傷していることに気付いたように、掴まれていた手首がぱっと離される。ライが慌てて振り向いた。
「すみません! 痛くなかったですか?」
「手首ですか? そんな、全然痛くないですよ」
「そ、ですか。良かった……」
ライは目を右往左往させ、口を開いては閉じ、また進行方向を向いた。ゆっくり歩き出したのでリーリアはその後ろをついていく。
「ダンテのことですが……あいつ、可愛らしい方や美しい人を見るとすぐ口説き文句を吐くんです。毎回、本人は至って本気なのは知っているんですが」
「はぁ」
「リーリアさんが行きたいのならデートに行くのも良いと思うんですけど、いや、ダンテって良い奴だけど、気をつけても欲しいし、だからさっき軽薄男って言ってしまって、だから何を言いたいかっていうのが僕のなかでも表しにくいのですけど」
「ライさんライさん、まってください」
ぽつぽつと喋り始め、次第に急流のような勢いで語るライをリーリアは止めた。
「デートのお誘い、社交辞令が入っているのは私でも分かります」
「僕はそこまで言ってな……」
「私が城下に遊びに行きたいかなぁと思って、気を遣って誘ってくれたんだろうなと思いますよ。ダンテさんも優しいですから」
リーリアはライに追いついて、彼をしっかり見上げて言った。ライは数秒考えて、こくりと頷く。
「皆さん、本当に優しいです」
リーリアはしみじみと言った。ライはそれには何も言わず、労るような微笑みを浮かべた。
「街にリーリアさんの服を買いに行くのもいいですね。とりあえずブーツと普段着が数着、もうすぐ届くはずなのですが、女性は実際見て選ぶのも楽しいと聞きますし」
「ベルクリスタンのお洋服は確かに興味が……えっ、私のブーツと普段着ですか!?」
「はい」
「え、い、いつの間に。とても嬉しいです。けれど、実家から持ってきたものとクローゼットにあったもので十分足りますよ」
首をふるふる振りながら言うと、ライの眉間に皺が寄った。少し怒っている。
「クローゼットにあるものは当面のしのぎで敢え無くです。誰かのお古を着続けてもらう気持ちはいっさいありません。……これも僕たちの説明不足ですね、すみません。そのうち落ち着いたら仕立屋も呼びましょう。今は必要なくとも、会食用や催事用のドレスは用意しておいて困ることはありません。普段着用も、お気に入りの一着二着作ってもいいですね」
「えっ……」
リーリアが思わず歩みを止めると、振り返ったライが笑みを濃くした。
「用意しましょうね大使殿。装飾品も見繕いますから」
有無を言わさぬ迫力に、リーリアは頷くしかなかった。
東棟内に入ってからしばらく歩き、最奥部まで辿り着いた。突き当たりの部屋はガラスが嵌め込まれた扉があり、ちらりと見えた中は居間のような一室だ。
「こちらです」
ライが開いたのはその左にある部屋で、シルヴァ伯爵家にあったような広さの厨房だった。広い流し台に作業台、二口のコンロ、小さな鉄製の扉はおそらくオーブンであろう。流し台の背面にある作業台に粉類の袋やナッツ類を入れたガラス瓶がある。
「ここは侯爵とその家族専用の厨房と居間になります。代替わりしてから現在は使われていません。こういうものは稼働させていた方がいいので、遠慮無く使ってください。必要な材料はその都度言ってくださいね、一緒に仕入れますので。火の精霊と契約しているので、コンロもオーブンも火加減は優秀ですよ。分からないことがあったら聞いてください。それと……」
ライは作業台にある紙袋をリーリアに渡した。
「その……僕たちからのプレゼントです。よければ使ってください」
驚いて言葉が出なかった。中はミモザ色のストライプ柄エプロンである。明るい色合いでしっかりした生地だ。
「あ……ありがとうございます、ライさん」
リーリアがようやっと出した声は少し震えていた。
「喜んでもらえたなら……良かった。……ええと、僕は仕事に戻りますね、それでは!」
逃げるように出て行ったライの後ろ姿がとても可愛かった。
せっかくなので、手始めにクッキーを作ってみることにする。オーブンは天板を三段入れられる仕様のようだ。小麦粉に砂糖、ミルクにバター、ふくらし粉と塩を少し、トッピングは干し葡萄。丁寧に混ぜて練って成型し、美味しくなりますようにと、おまじないをする。オーブンはボタンとレバーで操作できる魔法式のものだ。焼き加減を見るためにも三段の天板全てを使ってみたが、非常に優秀なオーブンだ、焼きムラもない。契約している精霊のおかげだろう。リーリアはオーブンに向かって礼をした。
さくり、と焼きたてのクッキーを試食する。
(うん、美味しい。これならちょっとしたお八つとして食べてもらってもいいよね)
クッキーを紙袋に入れた。いつもお世話になっているライとダンテとラミーを探すことにする。どうやらラミーがちょうど休憩中らしいので、教えてくれたメイドに礼を言って食堂へ向かった。
食堂を覗くと何人かが談笑中で、奥の方にラミーもいた。お茶休憩をしているようだ。入り口に背を向けているのでリーリアには気付かない。
「ねぇ、例のリーリア様とは仲良くできてるの?」
とことこ近寄ったリーリアが声をかける前に、メイドの一人が言うのが聞こえた。これでは盗み聞きしているみたいになってしまう。どうしようかと迷ううちに、彼女たちの会話は続いていく。
「うん。皆が危惧してたみたいな傲慢さは微塵もなくて優しい人だし、うまくやれてると思うんだけど……なんて言うのかな、他人行儀というか、一線を引かれてるというか、まだ一度も仕事とか呼んでくれないし、全部一人でやってしまわれるのよねぇ」
ラミーはグラスに入れてあるマドラーをカラコロと回し、ため息をついたようだった。
(もっと早くか、後でここに来るべきだった)
リーリアは息を止めた。これ以上は聞いてはいけない。気付かれないうちに、静かに引き返そうとする。
「どうなんだろう。他者とあまり関わりを持たないタイプなのか、まだ信用が足りてないのか……ねぇ、私ってさ――」
「ラ、ラミー、後ろ……」
ラミーの正面にいたメイドがリーリアに気付いて声をもらし、ラミーが急いで振り返った。その顔面は蒼白である。
盗み聞きするつもりはなかった。それに悪口を言われたわけではない――リーリアが他人行儀なのは事実である。なのに、リーリアは全身の血の気が引いた。伯爵家では散々酷いことを言われてきて、胸は痛みつつも平気であったのに、である。
「り、リーリア様、その、わたし……」
ラミーが口を開けたり閉じたりしながら何を言おうか焦り困惑している。ラミーは何も悪くないのだ、プライベート空間に居合わせた自分が悪い――リーリアは数歩ずつ後退した。
「いえ、ラミーさん、聞くつもりはなかったんです。すみません、出直します。……っ」
一礼して食堂の出口に向かう。扉を出るあたりでラミーが立ち上がったのが分かった。リーリアは廊下に出た途端全力疾走した。何故逃げるように走っているのか分からない。衝動だった。なんだかとても――逃げ出したかった。手に持った紙袋が、いたたまれないような、恥ずかしい気持ちにさせた。
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