第5話 花嫁は天空へ赴く(5)

「ええっと……そうだ、ライさんから聞いていませんか。夜は城の外に行かないように、とか」

「森の柵の向こう側にも行かないように言われました」

「それです。地上と違って天空は精霊種が多く生息しているので、彼らの悪戯に巻き込まれたりするんですよ。悪戯ですんだらいいんですけどね、ほほほ」


 リーリアは神妙に頷いた。なるほど魔法も使えぬリーリアは特に危険である。


「お腹が空いたかなと思いまして、軽食はこちらに用意しています。夕食はお部屋に持ってきますね。色々疲れましたよね、ゆっくりしてください。城の案内などは明日にしましょう。ライさんかダンテさんとお話しすると思います」


 部屋の入り口付近に木製のティーワゴンがあり、そこにサンドイッチと飲み物の用意があった。見た途端、リーリアの腹の虫が鳴る。


「……お腹すいていたんです。ありがとうございます」

「よかったです。それと、この部屋の鍵をお渡ししますね。それではまた」

「はい、よろしくお願いします」


 ラミーが部屋を出て行くのを見送り、リーリアはほっと息をついた。クローゼットに置かれている木箱を開けて、持ってきた普段着のワンピースを出す。深緑色と山葵色で仕立てられたそれを着て、栗色の柔らかい革靴を履いた。

 瞳が金色だ、と言ったときのラミーの表情が忘れられない。ウィリディスでの倦厭の眼差しとは違ったが、あれはあれで少し怖かった。天空では何か別の謂われがあるのだろうか。ダンテとライが特別な反応を見せなかったので、忌み子の風習は地上だけだろうかと少し期待したのだ。

 リーリアはティーワゴンを書き物机の傍まで押した。お盆を机の上に置いて座る。サンドイッチの具は卵に、レタスとハムと胡瓜、赤いジャムのようなものの三種類である。蓮の模様が描かれているポットから注いだお茶はすっきりした香りが立った。


「……美味し」

 表面だけ焼いたパンはサクリとして、味付けは優しい。窓から森を眺めながら食べていると心が凪いでいく。

(皆さんと仲良く、まではいかなくとも、うまくやっていきたいな……)

 食べ終えた食器はティーワゴンに戻し、安楽椅子に座るとまたすぐ眠気がやってきた。


 リーリアが次に目が覚めたとき、あたりはすでに暗くなっていた。体には薄い毛布がかけられていて、近くにティーワゴンもある。

 リーリアは固くなった全身を伸ばした。ワゴンの上段は新しくなっており、丸みを帯びた銀の蓋があった。開けてみるとレタスやトマトのサラダと、肉野菜のスープ、ふっくら美味しそうなパンが用意されている。下段には手提げランプと小さなベル、メモ用紙が置かれている。六角形の手提げランプは、木製の外枠のなかにガラスの球体が嵌められて作られていた。そのなかに橙色と黄色が混じり合う炎が揺らめいている。本物の炎には見えない。


「もしかして魔法?」

 メモ用紙には可愛らしい文字が綴られてあった。

『ベルは呼び鈴です。魔法式を組み込んであるので、部屋の中で小さく鳴らしても届きます。何かあったとき、私たちを呼びたいときにお使いください』

(魔法式! すごい、天空では魔法がこんなに身近にあるんだ)


 リーリアはワゴンを机まで持ってきて、暗闇に落ちた森を眺めながら夕食を頂いた。森には無数の小さな光が輝き、ゆらめき、浮遊している。幻想的というのはこういう光景を言うのだろう。

(夢のような景色だわ……私、本当に、天空にいるんだ。地上とは全く違う)


 浴室には新しくタオルや石けんが用意されていた。白くつるりとした浴槽の蛇口を捻ると湯が出てくる。これなら一人でも大丈夫である。

 入浴後、白い木綿のネグリジェに着替え、クローゼットの中を拝見した。古そうなものから新しいもの、華美なドレスから日常着まで、多種多様に揃えられている。


(もしかして、これまでの奥様方が持っていた服、かな? 多分そうだ)


 自分の持ってきた衣類を整理し終えると、もうすることもない。

 ベッドは真新しい寝具で準備してくれており、お日様の匂いがした。手提げランプはどうやって消せばいいのか分からず、足下に置く。分厚い天蓋の帳は少しだけ開けておいた。しん、と静まっている部屋はどこか心細いが――自分のいないところから賑やかな声が聞こえてくる実家も寂しいものだった。それを考えると、この静寂は穏やかさもある。


「ベルル、おやすみなさい。あなたも早くここに馴染めるといいね……」

 どこにいるか分からない友人に挨拶をして、リーリアは眠った。

 望まれない花嫁の、一人で眠る孤独な一日目であった。


       ○


 ベッドに白く明るい陽が差し込んだ。目覚めたリーリアは天蓋の帳を開ける。室内は優しく照らされており、足下に置いたランプの灯は消えている。時刻は午前五時、洗面で軽く顔を洗い、実家から持ってきたグラスグリーン色のワンピースドレスを着る。胸元に小さな縦ギャザーを数個寄せた装飾があるだけのシンプルな普段着は、すとんと落ちる八分袖、裾はふくらはぎが隠れるくらいで、くるりと回転すると少しふわりと広がる。


 これからのことについては今日考えましょうと言われているが、部屋で待っていればいいのだろうか。

 メイドの誰かが来るまではまだ時間があるだろう。それまで散歩してみることにする。

 書き物机の抽斗を引くと、期待通り筆記具と紙の類があった。念のため、部屋の外に出ることと森の近くまで散歩することを書き置きした。


 マダーレッドの廊下を歩み、来たときと同じ道順を辿る。階段を下りてしばらく歩くと一人のメイドと出会い、目が合ったので会釈するとビックリされた。彼女は深くお辞儀したあと小走りにどこかへ向かう。


(外出したらマズかったかな? 呼び止められてはいないから大丈夫かな……)


 城の扉が見えるところまで来ると衛兵らしき若者が駆け寄ってきた。分かりやすく困惑の顔をしている。


「リーリア様! いかがされましたか?」

「おはようございます。……その、早く目覚めたので散歩しようかと思いまして」

「おっ、おはようございます。……こんな朝早くにですか?」

「駄目でしたか? すみません」

「いえ! いま、城の扉を開けますね。どちらに行かれるか決めていますか?」

「部屋の窓から見える森の近くまで歩いてみたいと思いました。なんだかとても心惹かれる森です。来るときも思いましたが、ベルクリスタンの自然は美しいですね」

 リーリアが言うと、若者は快活に笑った。

「そうでしょう! リーリア様にそう言っていただけて僕も嬉しいです」


 開けてもらった扉の外には二人の衛兵がおり、彼らはリーリアを見ると驚いたのち姿勢を正した。

「おはようございます」

「ハッ! おはようございますリーリア様」

 威勢のよい声を上げる二人に微笑み、扉を通り抜ける。くるりと後ろを向くと、扉を開けてくれた彼がついてきてくれていた。


「ええと、お名前をうかがってもよろしいですか?」

「はい。ネシャルヒトと申します。皆ネーシャって呼びますね。リーリア様もそうお呼びください。森の近くまでご案内しましょうか?」


 ネシャルヒトは柔らかそうな金色の髪を少し揺らして笑った。人好きのする青年である。瞳は深い森の色をしており、優しそうな雰囲気をまとっていた。


「ありがとうございます。城の外周を回れば着きますよね? 一人で行ってみます、お気遣い嬉しかったです」

「分かりました。ですが一つ注意事項を。森の中に入る道がありますが、道途中で柵にあたると思います。扉を開くことはできる仕様ですが、リーリア様お一人でその先には行かないでください。絶対ですよ」

「はい。行きません。少し散歩したら戻りますね」


 手を振るネシャルヒトに見送られ、城の外周をぐるりと回る。ベルクリスタン領主の館は歴史ある強固な城だ。正面側はのどかな牧草地、背面は深く広がる森である。


(わ……)


 裏手に出ると雰囲気ががらりと変わった。草地とそれに面したどこまでも続く森、厳かで静謐な空気がする。日没後に見た無数の光ほどではないが、大気が輝いてみえる。ベルルはこの森のどこかにいるだろうか。

 森の中に入る小道は数人が横並びになって歩ける幅だった。道の脇には、小さな花やハーブがそこかしこに自生している。どこからか鳥の鳴き声が聞こえ、風が吹くと木々がさわさわと揺れる。


(吹き抜ける風が涼やかで甘い。気持ち良い森だわ……)


 歩いて行くと、小道の幅はほんの少しずつ狭まっていく。そろそろ引き返そうかと思ったあたりで、リーリアの目の前に猫が現れた。白くてふわふわした猫は、尻尾の先が二叉に分かれている。黒い大きな瞳で見つめられ、リーリアは立ち止まった。すると猫が近づいてきて、すりすりとその頭をリーリアの脚にこすりつけた。

(可愛い……)

 しゃがみこんで頭を撫でると、猫は嬉しそうにして顎を持ち上げる。撫で続けていたら今度は白い兎もやってきた。同じように撫でて欲しそうにするので、そちらも撫でる。

 そうしていたら、木々の間から数匹の猫と兎が近寄ってきた。


「えっ」


 撫でて欲しそうにリーリアの周りを囲み、にゃあにゃあプウプゥと鳴いている。十匹近くの動物たちに囲まれて当惑していると、小さな茶色の塊が風のように駆けてきてリーリアの右肩に乗った。


「ベルル! おはよう」

 キュイ! と鳴いたベルルはリーリアと頬をひと擦りし、猫と兎たちを睨み付けた。

『ギィッ!』


 威嚇するような甲高い鳴き声は初めて聞いた。猫たちは静かになったが、今度はベルルを見定めるように睨んでいる。

 一触即発の空気が流れるなか、風を切る音がして、空から黒いものが降ってきた。それはリーリアたちから数歩先のところにすとんと降り立ち、圧倒的威圧感をもってこちらを睥睨している。姿は黒い大型犬、だが滲み出る雰囲気がまるで違う。リーリアも動物たちも呼吸を止めた。彼は一瞬でこの場を支配したのだ。

 黒い獣がグルルと鳴くと、猫も兎も森の中に帰って行った。


「……」

 獣は立ち塞がるように小道の真ん中に立ち、薄い水色の瞳でリーリアをまっすぐ見つめている。

 この先には行くなということだろうか。

 立ち上がったリーリアは獣に一礼して引き返した。しばらく歩き、気になって振り返ってみると、獣はまだリーリアたちを見つめている。

 敵意ではないが好意でもない。

 黒い獣はリーリアに鮮烈な印象を残した。



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