揺らぎ、固めて 1


 ――ソウ。

 誰かに呼ばれた気がして振り返る。ガラス張りの壁の向こうで、清々しい青空が広がっていた。そこに点が現れる。点、否、正確には鳥の影だ。雄々しい羽根を広げ滑空した鳥は、市長室のバルコニーの手すりに降り立った。

 鳥はソウのことをじっと見つめている。

「呼んだのは、君か?」

 問いかけてみても、鳥は分厚い防弾ガラスの向こうだ。聞こえないだろう。

 ソウは立ち上がり、部屋を見回す。それからガラスに近づいて、外も一通り見る。普段と異なるのは鳥の姿だけで、他はいつも通りだった。

(バルコニーのカギを開錠してくれ)

(かしこまりました)

 ようやくカギを開ける段階にたどり着いた。やれやれと言いたいところだが、ソウの要望とリンヤの要望をすり合わせた結果がこれだ。我慢するしかあるまい。

 カギの開錠とともに、重々しいガラスが自動で動く。一人分の隙間を通り、外に出る。鳥はソウが近づいても、飛び立つ気配はなかった。

「呼んだのは、君か?」

 目の前に立って、そう尋ねてみる。鳥は黙って見つめてくる。普通の鳥には思えず、体を観察してみる。豊かな体毛に半ば隠れていたが、足に何やら紙を巻いていた。

「これを?」

 もう一度聞いてみる。やはり鳥は答えない。

 ゆっくり手を伸ばすが、逃げるそぶりはない。そのまま足に手をかける。指先に小さな痺れが走った気がした。同時に温かいような、寒いような、赤色、黄色、水色といった色がついているような、なんとも言えない感覚、感情が、ソウの体に流れ込んでくる。そのたびにソウは嬉しくなったり、淋しくなったりした。

 モエギは森と共に在る。

 一生忘れない、人生で最も濃い期間の記憶。

 ソウは無意識に微笑みながら、鳥の足から紙を外す。丁寧に折りたたまれたそれを、静かに、ゆっくり、開いていく。

 中には花の絵が描かれていた。宛名も署名もない。ただ一輪があるのみ。紫色の細い花弁が幾重にも重なり生えている。ソウの記憶にない花のため、薬草の類ではないのだろう。

 何のためのものか。誰のためのものか。これだけではわかりようもない。そのはずだが、ソウの中には大切な人の顔が浮かぶ。

幼い頃のままの顔しかわからない。今はどんな大人になっているのだろう。

「会えないものかね」

 鳥に聞いてみる。鳥は答えない。

 ソウは吐息を漏らしながら笑みを作る。

「ああ、そうだ。君にお礼を」

 ちょうど机の中に小腹を満たすためのナッツ類が入っていたはずだ。身を翻し、机に向かおうとしたところ、翼のはためく音がする。鳥はソウを無視して、空へ飛び立っていた。誇りを持った鳥のようだ。

 お礼の代わりにソウは鳥が見えなくなるまで見つめる。青い空の中、鳥が黒い影になり、黒い影が黒い点になり、黒い点が消えていく。ソウは鳥が見えなくなっても、しばらく空を見つめていた。

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