努力とは

努力とはどんなイメージがあるのかというと、辛くとも、苦しくとも、将来のための投資として日々頑張るものだ。決して楽なものではない。

ここでは努力の定義をこういった所に置く。


「努力は必ず報われる」という言葉を聞いたことがあるにもかかわらず、それが嘘であることを多くの人は既に体感している。

それでも自分の目指すもののために努力し、現状の自分をより良いものにしていく。

他の人の努力は応援する。

これは人の努力としてポジティブな面である。


だがネガティブな面もある。

「出来なくてもいいから努力はしなさい。」などとよく聞いたものだが、果たしてどんな事をすれば努力したと認めてもらえるだろうか。本当に努力してもできなかったとき、自分には何が残るのだろう。

他の人より劣っているということは、他の人より努力をしなかったからなのか。

できない奴は怠け者なのだろうか。


結果を出した人は必ずしも努力したのだろうか。



自分は理系の大学院まで進むことができたが、これはそれなりに価値のあることらしい。それが生きていく上でそれなりに良い選択肢であると皆思わないではないようだが、多くの人はそれを手に取らない。

大体の理由はできないから、やりたくないから、又は他にもっとやりたいことがあるから。すべきと予想される努力と手に入るものが釣り合ってないからだろう。


でも自分は特別な努力が実ってここまで来たのだとは思わない。できると思ったことをやり、それなりに楽しいことをやってきた。確かに締め切りぎりぎりになって徹夜して、よく分からない数式を色々調べながら課題を終わらせたことも両手でも数えきれないほどあった。結局満足のいく形で終わらずに不完全であってもできているところまでで点数をもらおうと眠気に負けて提出したり。その度に「もうこんなことやらなくていいようにもう少し前から課題をやろう」と思ったものだがそれができたことは数少ない。つまり自分にできることはできるが、できないことは結局できないため、他の自分にできることで補って、皆に合わせる。努力とは難しいものだ。


ほかの人もそうなのではないだろうか?


つまり人間は努力をするのが非常に難しい。すぐ自分のやりたことをしてしまうし、論理的に必要性を指摘されても、そしてその理屈に納得したとしても、その通りにできないことは多い。


でも自分が苦労して、辛くてもやり続けることで改善していったことが無いわけではない。つまり努力したことはあるのだ。どんな事なら努力できたのか?それらの事柄を思い浮かべていったとき、ある一つの仮説が出てきた。


他の人の為ならば努力ができるのではないだろうか?


自分の為に宿題をやる気には微塵もならないが、先生や親に言われるからしたかなくこなす。

誰かが褒めてくれるから部活や習い事も頑張ろうと思える。

規則正しい生活を送りたいとは思わないが、親に電気代が高くなるからやめてくれと言われるとその通りだと思い本人比で努力はした。(全然治らなかった)

他の人の迷惑になるという理由でやめるように言われたことの方が直りが良かった気がする。

親になると子供のために色々と努力するだろうし、チームで働いていれば効率が良くなると聞くのもここではないだろうか。

親がある分野での大御所であり、それと比較され、すごく努力したけどダメだったといった話もそれなりに聞いた話である。(つまり努力はしたのだ)


一方他の人の為ではなく、自分の為に努力するのは難しい。

自分が成長するために啓発本の内容を毎日実行できるか?

自分の健康のために食生活を整えられるか?

知っていた方が良いと思う事柄について自主的に学べるか?

できないことも多いだろうが、全てが出来ないわけではないだろう。ではその出来ることと出来ないことの違いはなんなのだろうか。

私が思うに「それに時間を費やすことで発生する苦痛、苦労の量」ではないだろうか。


さっきの話を思い出すと、もし周りから「あなたは努力をしている」と認めてもらえる事柄があったとすれば、多くの場合は他の人のために頑張っている。

そうでなかった場合、そこに他の人が理由に噛んでないならば「そこまで苦痛、苦労を感じていない」から続けることができているのではないか。

つまりそれは「自分が好き好んでしているだけ」ではないだろうか。


自分にはそういった経験はある。楽しい内容の物理とか数学の時間は楽しかったし、微塵も眠くはなかった。授業が終わっても数式をこねくり回してたこともあるし、家で繰り返し勉強して身に着けたような気もしない。リコーダーが好きだったし家でもかなりの時間吹いていた。別に授業に全く必要のない曲を耳コピしたりもしたが、それに思った通りに事が運ばない苦労は少しあっても、苦痛は全くなかった。

一方ほとんど興味がわかなかった歴史の授業なんかは先生が面白いかどうかが授業が面白いかどうかの9割ほどを占めており、だめな時は本当にだめだったものだ。一応先生に起きていろといわれ、テストでそれなりの点を取れと言われるのでやっていたが、あれはまさしく努力していただろう。


「自分が好き好んでしているだけ」という状態は確かにあると思ってもらえれば幸いだ。ではこれを努力と切り離すのはどうなのかとも思わなくないが、辛く苦しいものを努力としようと冒頭で決めたため、これは一度切り離し、「趣味への努力」としておく。何を趣味と出来るかは才能や育った環境に依存するため、運でしか決まらないだろう。


当然だが、辛くても努力をした人よりも好き好んでやる人の方が上達は早いだろう。精神的な余裕も違えば、それに費やせる時間の限界も違う。


こう考えると、現在色々な分野でトップを走っている人の殆どはそちらに属しているのではないだろうか。そういった人たちを取材したようなテレビを見ることもあるが、途中に挟まったスランプで苦しむことはあっても始めたきっかけと現状で苦痛を感じている人は見かけられない。それなのに、傍から見ているだけの多くの人が耐えきれないと感じるほどの「努力」をしている。


そして努力をしているからこそその人たちはトップなのであり、やはり努力は大事なのだという結論に至っているような気がする。



ここまでの結論として以下のような要点にまとめられるだろう。

①自分の為に努力するのは難しく、動機付けとして他の人を含む理由があったほうが努力をしやすい。

②自分の為に行える努力は珍しく、「趣味への努力」として限定的なことにしか使えない。しかし使えたならば非常に有益である。


自分に趣味が見つかれば万々歳だが、見つかったとしてもそれが稼げる才能であるとは限らない。

では「誰かの為に」努力をするのが良いのか?


だがこれも困ったことに、「誰かの為に」と頑張った場合、副作用のようなものが発生する場合がある。これは「誰かの為」ではあるのだがもう少し正確に表現すると、「誰かのために、仕方なく、他の何かを犠牲にしてまで」頑張ったということもある。


主に思いつく症状は以下のようなものだ。


①見た目として能力の低い人が「努力から逃げているずるいやつ」に見えてくる。

②ある分野において、自分より才能を持つ人を目撃してしまうときに受けるダメージが大きくなる。



①について

自分が頑張って行った努力の結果、人並み程度の能力が手に入ったとする。そこに至るまでの過程では苦しくて逃げたくて放り出してしまいたい思いを抑え込んで、誰かのために頑張ったとする。

そこでふと横を見ると、特に辛そうな顔をせずに、「それ苦手なんだよね。あなた出来るみたいだからやってくれない?」と言っている人がいたとする。

その相手が会社や、SNSや、保護者会などで自分と同列の評価を受けていたりしたら「ずるい」という気持ちが発生してしまうのではないだろうか。この「ずるい」という気持ちは生活習慣病のようなもので、それを原因として様々な人間関係の軋轢を発生させる。


実際、相手は努力を怠ったのかもしれなければ、本当に壮絶な努力をしても出来なかったのかもしれない。ここの真偽は不明である。

ただそんな事を考えるまでもなくずるいと考える気がする。


自分は努力の結果能力を得た。一方相手は努力をしたにも関わらず、又は努力から逃げ出してしまった結果、能力が得られなかった。

逃げ出すことを得な事と考えなければ、どちらにしても自分は相手より得をしていそうに考えられる。逃げ出すという選択は「したいとは考えていた」が、結局しなかったのだろうからそこまで得とは思わなかったのだろう。

ならば自分は何も損をしていないし、寧ろその能力を得られなかった相手を憐れんでもいいかもしれない。決して「ずるい」ということはないだろう。

といった形で論を展開することも出来る。これを押し通すなら、「自分だけが得をしているのに何故ずるいのか分からない。」となってしまう。


だがこれにはひとつ仮定が抜けており、「努力の結果、得たいものが能力であった」という前提がある。恐らくこれが嘘なのだ。

私達が欲しかったのは能力ではなく認めてもらうことであり、そのため「その相手が自分と同等に評価されている」というのが恐らく気に食わないのだ。


私達は他の人のために努力した結果、対価として褒められたい認められたい等の承認欲求があるように思う。むしろそうした欲求があるからこそ努力ができるのかもしれない。自分が頑張って手に入れていたものを相手が何もせずに手に入れていたら、それは確かに「ずるい」と感じるだろう。


つまり人の為にする努力とは、承認欲求を餌にしていると考えることもできそうだ。

餌で釣って努力を引き出しているのだから、餌が与えられない場合は反動があって然るべきだと言えるだろう。これが人の為に努力する場合の問題点のひとつである。


②について

これも①と同じ理解で行くと、努力をする人の目的は努力を捧げている事が上達することではなく、主には認めてもらうことである。

自分が趣味で活動しており、目的が楽しむことであったならば他の人の才能など「あの人は自分とは違ってすごいなぁ」で終わるが、今回はそうも行かない。

才能ある人はより少ない努力、又はより少ない苦労で一定以上の成果を上げる。その人と比較されるのだから、ある程度の実力では「そこまで頑張らなくてもできるのでは」や、「あの人努力してないんじゃ?」となってしまう。つまり認めてもらうことが難しいのである。これは精神的に大きな負荷になるのではないだろうか。



纏めると、自分の中から湧いてくる欲求に従って努力をできる人はそれが才能であり、運良くそれで稼げそうならそれをして生きていくのが良いだろう。

そういったものが見つからない場合、生きていくためには一定の努力が必要だが、その努力の為には他の人による動機付けと、その後のアフターケアとして認めてもらう事があると良いだろう。

そんなアフターケアしてくれる人いねーよという人は、、YoutubeでそういうASMR動画でも探して頑張って思い込んで聞いてみたら良いんじゃないだろうか(


特定の人の特定の行動だけを見ると努力とは無限にできるリソースだと思うかもしれないが、恐らくそんなことはない。

自分が努力しやすい分野を見極めて努力し、厳しい分野なら自分の心が荒れないように加減をして生きていくのが良いだろう。

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