運ゲーほど実力ゲーである
タイトルはよくある記事みたいにちょっと盛ったかもしれないが、全て読めば間違いでもないと感じてもらえると思う。
正確に書くならば、「運ゲーと実力ゲー 期待値の話」みたいな題になると思う。
運ゲー実力ゲーの境界はもちろん人によって違うだろうし、そもそもあまり聞いたことが無いからそんなこと考えたことないという人もいるだろう。なのでそのあたりの感覚の共有からしていきたいと思う。
運ゲーとは非難的な意味合いでよく使われる。ソシャゲのガチャでお目当てのキャラが出ないときなどはひどい言われようだ。「運ゲーマジクソ!二度と引かねえ!」みたいな感じだ。
ギャンブルで破産する残念な人や、ガチャで中々当たりが出ないことを考えればまぁそう言いたくなる気持ちも分からなくはない。
また、人間同士が戦うような、所謂PvPのゲームでもこれが適用される場合がある。有名なところだとスマブラとかポケモンとかで、もっとニッチな分野になってくると麻雀だとか、ポーカーやTCG、DCGといったカードゲームだとかだ。
人と人が試合をするんだから実力がでる戦いになるのではと思う人もいるだろうが、持ち込むキャラやデッキの相性、引き運の良し悪しが試合の勝敗の大きな割合を占めている場合があると、そのとたん運ゲーと呼ばれる。また先攻後攻が存在する場合は大体がランダムに決めているため、これが勝敗に大きな影響を与える場合も運ゲーと言われることもある。
そういった、「運ゲーのせいで負けた」という恨み節に返される意見には主に見てきた中では2種類あり、以下のような内容だ。
「運ゲーなんかやるな」
運ゲーだと分かっていたのに手を出すのが悪い。運ゲーで勝てない経験はもういっぱいしてきたでしょ?やるやつは学びが足りない。
「実力ゲーやれば?」
運のせいで負けたって言ってるけどさ、君には単純に実力がなかったんじゃないの。実力で勝負したら自分の方が上だったとか思ってるの?運で負けるのか嫌ならもっと実力のでるゲームを頑張ってみなよ。
1つ目の「やめとけ」という意見は単純な意見だが、まぁよく聞く。正直この意見を言う人は、本気でやめさそうとは思っていない。どちらかというと「聞き苦しい文句を言うな」という指摘であったり、「運ゲー当たらないと分かってるけどやっちゃうよね」という共感を含んだ意味に聞こえる。そして本気ではないのだから揉め事は起こらない。どちらも冗談を言い合って終わるので平和なものだろう。
もう片方の「実力ゲー推奨」はもう一歩踏み込んで、具体的にとうするべきかも含めた意見となっている。
こちらの意見を言う人は恐らく本気でそう思っている。だから具体的な実力ゲーと言われる競技を出してきて、ついでのように運ゲーと言われているものに対しての批判を浴びせ、論破しようとしてくる人が多い。自分が正しいと思っているからか、煽り文句をセットで付けてくれる人もいる。
実際、運を多く含んだ競技というのは下に見られることが多いこともあり、この意見は通りがちだ。だが個人的にはこれはかなり浅い意見であり多くの人が納得してしまうのはあまり良いことではないと思うため、そういった意見への予防接種のような意味合いで、ここに色々書いてみている。
まずは面倒だが言葉の認識共有からしていこう。
「運」というのは「どんなに策を弄しても制御出来ない分岐」のことだとしておく。「運要素がある」というのは「自分では制御出来ない分岐が存在する」という意味を表す。サイコロを振って決めるだとか、カードを引くだとか、そういう要素だ。
「実力」という言葉を変換するのは難しい気がするが、運の対義語として出てきているわけであるから「分岐を制御する力」だとしておく。
これも考えてみればあまり違和感はないと思う。実力さえ十分にあれば、無限に存在する分岐で失敗することなく成功へ向かうことができるのだ。
今日、色々な分野で「プロ」と呼ばれる人は存在するが、その誰もが「実力」を認められたからこそその地位にいる。
ただし、すべてのプロが万人に評価されているわけではない。上でも書いたように、「運ゲー」と呼ばれやすい競技は下に見られてしまうことが多い。実力より運で勝ったように見えてしまうことがあるからだ。つまりプロなのに実力が低くて、「その程度なら自分もできる。すごくない。自分のほうが上手くできる。その席変われよ。」みたいに感じるようである。
では実際に、運ゲーに実力はあまり反映されず、レベルの低い競技なのだろうか。
これを証明するために、実力ゲー推進派が用いる手法の一つに「運ゲープロの勝率の低さ」がある。
確かに勝率は違う競技同士で実力を比較するパラメータとなり得るように見える。
同じ百分率として算出でき、数値を直接比較できるのだから。
分野Aのトップ選手は勝率80%、分野Bのトップ選手は勝率60%であったとしよう。
ここだけ比較すると分野Bが見劣りしてしまうのは仕方ないかもしれない。とはいえその分野全体での勝率の分布も参考にすべきである。
分野Aにおいて、恐らく勝率60%というのはありふれた数字なのだろう。トップには80%を叩き出すプロがいるのだから。だから分野Bにおける勝率60%の実力の程度が低く見えるのだ。
その一方、勝負の世界には勝者がいれば必ず敗者も存在する。勝率80%も叩き出す選手が存在する光の部分に対して、勝率のかなり低いプロも多く存在しているという闇の部分もあることだろう。
だが分野Bではトップが60%なのだから下の層でも勝率は40%ほどなのではないだろうか。
つまり実力が拮抗しているからこそトップの勝率が低くなっているとも言える。分野Aのプロの敷居を高くしもっと拮抗した争いをさせれば、トップの勝率は下がってくるはずである。それでも突出した個が勝率を出す場合はそれは才能でしかなく、それはある意味運なのではないだろうか。Bumpの才悩人応援歌でも歌われているが、平凡に見える人が努力していないから差がついているのではない。恐らくプロはみんな努力をしていて、そこから先天的な才能や、選んだ努力の方向性で差がついているだけなのだ。これらの勝率を出すのにも運が必要といえる。
後半は少し話がズレたが、つまりは勝率がこの論からあまり当てにならないことを理解してもらえれば良い。
とはいえ、運要素が大きい競技においては勝率は出にくいのは事実である。麻雀やカードゲームは下剋上が起こりやすい。アマチュアや、もっと言えば少しやり方を学んだだけの人がプロに勝つなどのことは当然のように起こるだろう。少し齧ったことのある人ならばこれは皆理解できると思う。どうやっても勝てない引きをすることはまあ起こることがある。正しく運ゲーである。
だが長い目で見るとプロは確かに勝率を上げている。これはどこで差がつくのか。
運とは「どんなに策を弄しても制御出来ない分岐」と表現した。確かに運ゲーと呼ばれるも競技には分岐が数多く現れる。
例えば60%の確率で8点得られるが、40%で4点しか得られない行動1と、必ず6点得られる行動2があるとする。
実力が大きなを支配をもつスポーツでも、ある程度このようなリスクと安定の選択を迫られることはあるがこれほどスッキリと確率と結果が判明したりはしない。だが元から運ゲー故の良さとして、確率と結果が明らかになる場合がある。確率と結果が判明している場合、期待値という考え方を使って明らかな正解を選び出すことができる。
この確率と結果が明確に決まらないときはこの選択に正解など判明せず、成功したものが正義となる。あるスポーツが突然盛り上がったりするときは、多くの人が正解と考えた選択ではない選択をして大成功した場合が多い。正直「運ゲー通しただけでは?」と思うが勝てば官軍とはよく言ったものである。実際、分のいいかけであったことは多いのだと思うが、その「分のいいかけ」を行ったが失敗した人というのはほとんど評価されないわけである。
そういった、「惜しいところまで行った人達」が可視化されないだけでもっと沢山いたのだろうと思うと、理不尽なような、ある意味現実的なような気がする。
話を戻して、期待値というのはその運ゲーを十分な回数行ったとき、得られる得点の平均値の近似法である。要するに1回きりの選択にはそこまで大きな意味はないが、自分の職業として何度も行う選択であったりすれば、これに従うことは非常に大きな意味を持つ。これを理解していればたった1回の選択にも期待値を適用したくなるが、試行回数が少なければそれが外れてしまうこともザラであるため外れたときにも納得がいく選択をするのも良いと思う。一周回って、期待値に従って選択した結果であるから外れてしまったとしても正しい選択をしたとして納得してもいいだろう。
期待値の計算は簡単に言うとそれぞれの確率と得点を掛け算したあとすべて足すことで求められる。
60%×8点+40%×4点=6.4点
ここで出てくる6.4点というのが期待値であり、行動1を十分な試行回数行った場合の平均値ということになる。安定択を取った場合の得点の平均値は当然6点なのだから、少しでも多くの点数を取るための選択としては、確率による分岐が発生する選択をするのが正解となる。
この選択をした結果試合がうまく行きそのまま勝った場合、言葉を選ばずに言うとにわかな観戦者には運だけで勝ったように見えてしまう。
「あそこで4点しか取れなければ負けてたくせに運だけ」となるわけだ。
また、この選択をした結果ハズレを引いて、不利になり負けてしまうこともあるかもしれない。そうすると今度は運ゲーに挑戦したやつが悪いように考える人もいる。
「そんなリスクに手を出すから悪い。プロなら安定択を取っても勝てるように試合を運ぶべき」となる。
なんとも理不尽なことである。
このように、運ゲーと言われる競技ではこのような期待値の計算が、ほとんど全ての選択において行われている。複雑になってくれば近似して考えたり、経験の統計に頼ったりしているだろうが、勝つ人は皆考えていると言っても過言ではない。ポーカーとは顔から手札を読んだりといったこともあるのかもしれないが、これの局地でもあるとわかる。ある手札の場合、どのカードを返すのがいいのかが、計算すれば正解が分かるのだから。だがこれを人がやるのは処理能力的に厳しいため、AIにぶん投げているという話を聞いた。AIの計算により最適解を算出し、それを学習し、その通りにプレイして十分な試行回数があれば必ず勝ち越すのである。結果を得るためには十分な試行回数が必要であり、少ない回数では負け越す事があるというのは期待値という考えの宿命であり、そこを避けて通ることはできない。
相手も同じ程度の最適解を得ているのであれば勝率は本当に運の偏るままにとなるかもしれないが。
実力ゲーでは競技の頂点の人の行動を真似するのは無理である。
競技の頂点の人の実力は揺るぎないものであり、恐らく努力と才能の掛け合わせである。努力をすれば全てが叶うと信じてる人はもうおそらく居ないと思うので、才能の割合がある程度あるのは理解してもらえるだろう。才能があるかは運であるためこちらの方も運ゲーなのではと思わなくもない。
一方、運ゲーは結果さえ分かってしまえば誰でも真似ができる。ポーカーで同じように手札交換するのは誰でもできるし、麻雀だってプロに横についてもらえば全く同じ手順をなぞることができる。学んでさえしまえば誰もに平等な勝負であると主張することもできそうだ。
また、素人がプロと全く同じ選択を繰り返してたまたま最強の動きを行うこともあるだろう。猿が無限回タイプライターを叩けばいつかはシェイクスピアの作品が完成するという、無限の猿定理のような事案である。
これがあるせいで誰にでもチャンスがあるともいえるが、結果的に本当に実力がある人も評価がされにくいという現実も想像できるだろう。
この話は基本的に運ゲーを擁護するものであったが、いくつかの運ゲーについては完膚なきまでに否定してしまうだろう。
例えば宝くじなどは完全に否定されそうだ。宝くじの当選確率は分かっており、当選結果もわかっているため一枚買うことでもらえるお金の期待値が計算できる。これが1枚購入に必要な金額を超えていれば買い占めれば必ず得をすることができるので可能なだけ買うのが良く、超えていなければ1枚すら買う価値がないと言える。
おそらく購入金額を大幅に下回る期待値が計算でき、お金を増やしたいという目的では買ってはいけないものと言えるだろう。
軽く調べたところ、期待値が購入金額の50%以下にしなければいけないという決まりがあるようだ。確かに期待値が購入金額以上になった場合どうやって経営が続いているのかが不思議であり、もっと悪質な談合や裏口購入が予想されるので期待値が購入金額を下回っているのが健全?なのだろう。上のきまりはそのためでは無いかと思う。
つまり運ゲー全てを擁護しているわけではなく、期待値を利用して分岐を選択する運ゲーが、非常に思考のし甲斐ある非常に楽しい遊戯であるという認識を持ってもらいたいのである。
人のやっていることに正論でケチをつけるのにほの暗い快感があるのは分かるが、その感情に振り回されないようにはしたい。それに振り回された結果間違った理屈を大声で主張してしまうのは大概恥ずかしいことだ。
また運ゲーしている側の人間は、運ゲーを批判された時、どこか負い目のようなものを感じてしまっているからそういった意見に押し負けてしまっているのかもしれない。今のところ相手意見に不備がありこちらが負い目を感じる必要はないため、堂々と反論できるようになりたいものである。
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