科学と宗教の違いとは何か
科学は宗教と対極の存在であるような意見を偶に聞く。「宗教等のオカルトに騙されるな。数字等の科学的根拠を求めろ。」みたいなやつである。これは一見理に適った理屈のように感じるが、よく考えてみるとかなり怪しいもののように思う。
私達は科学を学ぶときにどうするのかというと、最初は理屈ではなく概要を学ぶ。概要というのは今までの研究から分っている、根拠無しで示しても良い当たり前の事実や、それより深い、もっと根源的な仕組みを説明するために必要な言葉の定義である。
「物質を細かく分けていくと原子と呼ばれる粒に分けられて、それらが集まって分子を作って…」とか、「電解質の物質とは水に溶かすとイオンに分離して…」みたいな内容である。これらの現象をもっと深く説明するには量子力学も用いて物質(電子や原子など)が安定なエネルギー状態を目指すような理屈が必要であるが、そんな話は一切しない。理解も出来なければ面白くもなく、なんの価値もないためである。教えないのはお互い時間を無駄にしたくないので当然のことだ。
一方根源的な理屈がそこに無いなら最初はそれらは信じるしかない。テストでいい点数が貰えたり、親に褒めてもらうことで私達はこの信仰心を高めていく。自分の場合、パターンに当てはまっていく定理や法則は深く理解する前から何となく「それっぽい」というくらいの既視感があり、それも信じる方向へ心理が向いていった理由である気がする。そのため覚えやすくてテストでの点も取りやすく、その道に進むのにそれほど苦労はしなかったように思う。
「科学として学んだ内容に、本当にしっかりと根が張った理屈により組み立てられた根拠を求めることはまだ出来ない。ただし矛盾は少なく、信じるに値する。これを前提にもっと詳しい話を聞いていけば納得のいく説明が降ってくるかもしれない。そして今の所、この先降ってくるであろう理屈は正しそうに感じる。なのでもう少し深い理屈を学んでみたい。」
これくらいが、科学が好きになり理系、もっというと理学系に進む人の心理のなかで、特別現実を理解している人の心理ではないだろうか。勿論自分はこんなことを考えていなかった。
多くの人は育てられた信仰心を元に、「自分は既に多くの事を理解した。これからはもっと高級な理屈を学んでいくのだ。」くらいの考えを持っているのではないだろうか。自分はこうだったような気がする。工学系の人にはこれで十分なのかもしれないが。
実際これはかなりの確率で間違いではない。今の所、その理屈で様々な装置が設計され、作られ、それらは実際に問題なく仕事を果たしているのだから。
ただしその考えは理屈の土台が空中に浮いたままなのである。原子の存在は、そのようなものを想像するとそれらしい理屈が完成し、実際に上手く行くだけであって、原子と呼ばれるものの本当の姿は私達が想像するようなものではないかもしれない。
例えば、中学や高校で習う電子軌道と言っていたものがある。太陽を原子核、惑星を電子のように見立てて電子がくるくる回っているような軌道のイメージするものだ。これは大学で量子化学を学んでいくとただの「それらしい理屈」であったことを理解させられる。本当に原子核の周りを電子が回っているわけではないと言われるのだ。電子が実際に回っているという理解は大体の理屈を説明するのに簡便だが正確ではない(と言うことに今の化学ではなっている)。
実際は電子とは正確な位置と運動量を観測することはできないため存在確率で表すしかなく、そのため存在確率を色の濃淡で表したような図を「電子雲」なんて用語で示したりもする。
つまるところ何が言いたいかというと、今まで学んできた理屈は「それらしく作り上げられたもの」の可能性があり、そのうち覆る可能性もそれなりに存在するのだ。
もし覆ったとき、自分は何故それを正しいと思っていたのかというのを考えていくと「信じていた」くらいしか言いようがないのではないだろうか。これは宗教と何が違うのだろう。
「神はサイコロを振らない」という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは量子学の確率論的解釈を否定したアインシュタインの有名な言葉である。
アインシュタインほどの有名な学者が批判する理屈は間違っているのだろうと思うかもしれないが、現在はこの考えが主流になってきている。
アインシュタイン等の量子論に反対する学者は理論の矛盾点を何度も指摘し、そのお陰もあり量子論は発展してきた。だがアインシュタインが量子論を認めることはなく、最後まで自分の主張する理論が正しいと信じていたようだ。まあもう少し未来では実は彼が正しかったと示される可能性も無きにしもあらずといったところだろうか。
それよりも昔には燃素(フロギストン)と呼ばれるものが信じられていたことがあり、これも多くの信仰を集めたものであったと聞く。
燃素とは燃える物質に含まれているものと言うふうに言われていたが、ある時燃やすと質量が増えるものが発見された。燃えると酸素と結合するものもあるのでまあ今となっては当たり前である。ただし当時としては「燃えた(=燃素が消費された)のに質量が増えるということは燃素が負の質量を持っていることを示す。」のような話も出たようだ。無理があるような、それっぽい大発見なような、、という感じである。そして大きな権威のある学者がそれを支持していたこともありこの燃素は中々長く信じられてた。現代でもこんなものが見つからないかなと思うような、思わないような気分である。
つまりどういうことかというと、科学もその時代の最先端まで来ると哲学のような話になり、どちらを信じて研究するかは思想の違いとしか言えないような話になってくる。実験結果が出てない状況では相手を説得する手段もなく、また実験結果が出たからと言って「それっぽい」ものであっただけで正解かどうかは神のみぞ知るといったところである。勿論相手が自分の考えを翻すとは限らないだろう。
これらと宗教は何が違うだろうか?
科学こそ、世界で一番信仰されている宗教ではないだろうか?
私達は「それっぽい」理屈を信じて生きている。疑い続けるのは非常に心に負荷がかかる行為だ。でもそれを止めている期間が長ければ長いほど、とんでもない間違いを信じてしまう可能性を上げてしまうのではないだろうか。
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