(その9)
薄暗い展望室のベンチに座り、持って来た文庫本を読んでいると、下の船室から異様な音が聞こえた。
毛布にくるまってベンチで横になっていた綾子も、はっとして起き上がった。
ふたりで階段を駆け下りた。
獣のようにうめく声が船室から聞こえた。
続いて中から扉を激しく叩く音がした。
綾子が扉の把手に渡した鎖をほどくと同時に、扉がバンと外に向かって開き、首から血を流した男が足元に倒れ込んだ。
缶ビールも飲まずにいた物静かな学校の教師然とした男が、船室を指差した。
・・・中を覗いて驚いた。
ぼんやりと光る天井灯が、凄惨な部屋の中を照らし出していた。
毛布にくるまった男たちが血塗れになって転がっていた。
「きゃっ」
綾子は叫び声をあげ、船室を飛び出した。
男たちそれぞれが、同じような理容師が使う長い剃刀の刃でもって首を掻き切っていた。
誰ひとり生きてはいなかった。
めいめいの首から滴ったどす黒い血潮が、グレーのカーペットを赤く濡らしていた。
「集団自殺?」
そんなことばが頭をよぎった。
「何があったんです?」
長髪の男を抱き起してたずねると、男はただうめいた。
「剃刀は誰が?」
そうたずねると、男は苦しい息をつきながら、
「分からない。・・・悪魔が、『死ね』と耳元で囁いた」
と、かろうじて言った。
・・・船長が階段を駆け下りてやって来た。
船室を見渡したあと、船長は床に転がる長髪の男を抱き起し首の切り傷を確かめてから、止血のテープでぐるぐると巻きにして、肩を貸して抱き上げ、展望室に運んだ。
風雨はやや弱まったが、減速したクルーザーは相変わらず波間をローリングしていた。
やがて、東の空が白みはじめ、風雨は次第におさまってきた。
前方に黒い島影が見え、弱々しい太陽が、霧にかすむ島の向こうから立ち昇ってきた。
島の入り江に抱かれるようにしてクルーザーは進み、沖合で碇を下した。
大きなゴムボートを下して、船長、長髪の男、綾子、じぶんの順に縄梯子を伝って乗り移った。
モーター音とともに、ゴムボートは波の静かな入り江を進んだ。
振り向くと、クルーザーは船尾から波間に沈み、船首を空高く突き上げてから海の底へ沈んでいくのが見えた。
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