第2話
「本当に行っちまうのかよ、努」
僕は雑居房を振り返る。橙色のジャンプスーツを着た屈強な大男が溢れた涙を拭う。彼との思い出を回想する。
「胸、尻。お前はどっち派だ。ちなみに俺は足派だ」
初対面の第一声がこれである。ただの変態だ。友達でも何でもないことに気づいた。
「そりゃ……ね。アンジェルさんのお願いだし。それにあっちの棟の方が安全そうだし」
「ちっ、これでラブコメは終わりか。看守と囚人の禁断の恋。引き裂かれる二人。あー、なんて素晴らしいんだ。次は、次は何だ。筋肉と筋肉がぶつかり合う戦争か!」
細身長身の眼鏡をかけた男が胸を張りながら天に叫ぶ。
「それとも絶望的なダークファンタジー。監獄の陰謀!!」
そんな世界はお呼びではない。いい加減ろくでもない人生なんだ少しは休ませてほしい。
「努君。準備は終わりましたか?」
穏やかな旋律のような声がする。アンジェル・ラ・ドルレアン、ディープ・プリズンの看守長。シスター服の胸元にはその証拠に金色の二本の飾り線が縫われている。顔は薄く黒いベールで常に隠されているが覗く赤くぷっくりとした唇。白い肌、地面に付きそうな茶髪とアメジストの瞳。右手には常に分厚い本を抱えている。首元のチョーカーが紅く怪しく燐光を放った。
「はい、大丈夫です。忘れ物はありません。持ち物なんて手袋とこの身一つなので」
「残念ですが、それ以上の物は持てませんよ。規則なので」
僕はアンジェルに駆け寄る。
「俺たちも荷物として連れて行って良いんだぜ」
背後から下らない提案が聞こえたので無視。アンジェルは僕がついて来ていることを確認するとコンクリートの廊下を歩き始める。
「任務は覚えていますか?」
アンジェルが少し声を潜めながら言う。
「脱走した囚人の捜索……ですよね?」
「ええ、特別危険な囚人です。野放しにしておくわけにはいけません。貴方であれば、囚人の立場を活かし接近できるでしょう」
「身体的特徴が何一つ分からないとなると、難しいです」
「残念ながら監獄長でさえ顔を知らないんですよ。不自然ですね」
アンジェルは顎に手を当てながら言う。歩いていると食堂が視界に入る。並べられた長机。野暮ったい罵詈雑言を思い出す。
「食堂を見るだけで少し懐かしさを感じますよ」
「最初の頃は食事すら喉を通らなかった努君を教育してみせた私を褒めてください。ディープ・プリズンに収監される前のトラウマが強い人は偶に居るんですが、貴方はとびっきりでしたよ」
アンジェルは胸を張って言う。
「色々あったんですよ」
僕は適当に話をはぐらかす。過去は古い傷口。見たくも触りたくもない。
「計百五十七回の質問の末、ようやく返事をしてくれたぐらいですからね」
「よく回数なんて覚えてますね」
「あらあら、私は大抵の記憶は覚えていますよ。例えば……」
アンジェルは重々しい鉄製の無骨な扉を指差す。
「あそこで四百五十九着の服を作り上げていますね。看守たちから評判ですよ。努君が作ったものは無駄がないって」
「そこまで覚えていると薄ら寒さを覚えます」
「流石にどの囚人のことも覚えているわけではありませんよ。貴方だけです」
紫色の瞳を爛々と光らせながら僕の顔をアンジェルが覗き込む。愛を感じればいいのか恐怖を感じればいいのか分からない。両側に牢屋のある道を歩き続けていると天井が唐突に高くなる。中央の円形の枠の中に黒く分厚い看守の服を着た男が立っている。
「アンジェルです。囚人の移転を行います」
アンジェルは書類の束を看守に向かって差し出す。
「…………」
看守の男は無言で受け取り一枚一枚確認していく。重い口を開いた。
「監獄長の印ですか。珍しいですね」
低く冷え切った無感情な声。
「少し任務を承ったので」
「分かりました。どうぞ、第一収容棟への入居許可証です」
看守はアンジェルに薄いカードを渡す。アンジェルがそれを僕に手渡した。鈴音努、十七歳、一般囚人。必要最低限の情報と憂鬱そうな自分の顔が印刷されたカード。僕は看守に古いカードを渡す。看守がそれを確認し手元の紙にサラサラと文字を書く。数分後、擦れる音。音の方を振り向くと鉄格子の扉がゆっくりと開いていた。
「では……良い監獄ライフを。ディープ・プリズンに安寧あれ」
「安寧あれ」
アンジェルは面倒くさそうに言った。抱えている本を握りしめているところを見ると信仰的にどうも気に入らないらしい。
新しい囚人が来るのは当たり前だが誰かが収容棟を移行するというのはこの監獄において一般的ではない。第一収容等の食堂に入った途端、僕は場違いな雰囲気と周りの注目の視線にため息をついた。時刻は十二時。丁度昼食の時間だ。長机に座った人間が僕と食事を交互に見つめている。転校した気分だ。
「本日より、彼もこの棟の囚人となります」
アンジュルは僕に手を向けて言葉を促す。震える体を抑え薄く息を吸った。
「鈴音努。S19世界の日本出身です。よろしくおねがいします」
出身国でも場所でもなく出身世界を名乗るのがこの監獄の慣習である。
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