ディープ・プリズン
古海 心
第1話
目の前から壁が迫ってくる。虹色で、風に揺れるような薄い膜。僕は忙しなく動かしていた足を止め、横に跳んだ。煉瓦の壁を蹴って滑り込むように前進。さっきまで簡素なコンクリートの廊下を彩っていた背後の花瓶が台ごと消滅していた。
「最悪の展開だ」
白い手袋を付けた両手で着地の衝撃を受け止めた。唇をゆっくりと舐める。分厚く黒い服を着た看守が立ちふさがる。顔は通気性を考慮しないヘルメットで覆われている。目元のスリットから眼球が覗いた。看守は右手に持っていたケラウノス――警棒にスタンガンの機能を持つもの――を強く握りしめる。頭をかち割り鮮血の花を散らそうと振り下ろす。僕はそのまま踏み込む。看守は懐に潜り込まれたことに狼狽し反応が遅れる。僕の拳が漆色の服を貫いた。微かに漏れるうめき声。僕はその場で飛び上がり、右脚を鎌の如く看守の頭部に叩きつける。看守は頭から煉瓦の地面に見事着地。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
廊下の角を曲がると、一丁前の雄叫びを上げながらもう一人の看守が現れる。双子かと思うほど同じ服装だ。ただ体格が違う。呼吸の乱れ方が違う。振り下ろされたケラウノスを身を捻り躱す。掌底をヘルメットに叩きつける。看守が仰け反った瞬間。僕はすかさず相手の足を払った。看守は転倒。踏みつけて飛び越えようとするが足が止まった。僕の足を倒れた看守が万力のような力で固定している。看守は右手に握ったケラウノスを振り上げる。武器は熱を帯びたように淡く光ると刹那の内に起動し閃光と雷撃を纏う。雷槌が足を狙って振るわれる。
「右に身を捻れ!」
広域魔術によって自動的に日本語へと変換された言葉。前方から凛とした声が警告を発する。咄嗟に掴まれた右脚ごと無理やり体を捻った。銃声が空気を震わせる。看守が振り下ろしたケラウノスに弾丸が着弾し機能が停止。カチリと引き金を引く小さな音がもう一度聞こえた。二発目の弾丸は看守の薄っぺらいヘルメットを貫通し頭蓋を破壊。断末魔の叫びとしては少々役不足なうめき声が聞こえた。僕はヘレンに追いつく。ヘレン・ラクト・フォーリエ。赤紫色の長髪を振り乱しながら疾走する姿は少女と呼ぶには野蛮すぎる気がする。
「おい貴様! 右と言っただろう。左に避けてどうする?」
「君の視点だったのかよ! 危機的状況ぐらい相手のこと思いやれ」
「魔王たるもの他人を思いやっては名が廃る!」
ヘレンは口の先を吊り上げて笑う。琥珀色の瞳が楽しそうに細められる。ヘレンにとってこの状況は楽しくて仕方がないのだろう。
「前に飛べ!」
ヘレンが鋭く言い放つ。調教でもされたのか僕の体はその言葉を一切疑うことなく飛んだ。
「〈絶対防御仮想壁〉」
荘厳さすら滲ませる低い女性の声が背後から反響。直後、さっきまで僕らの居た場所を囲むように泡のような虹色の壁が四つ出現。空間を握り潰す。僕は受け身を取れずに倒れ込む。背後で空気が砕ける。気圧が急激に下がり暴風が巻き起こる。
「こっちだ!」
ヘレンの白く細い右手が僕の左手を掴み。一気に引き寄せる。僕はヘレンに抱きかかえられていた。大胆なことをした割に本人は初なのか頬を赤く染めている。
「ええぃ! 緊急事態だ。私がやりたかったわけではない。こんなハレンチなこと」
「ヘレンって処女だよね」
「黙れ、居場所がバレる!」
僕らは咄嗟に隠れた。周囲を見渡す。長方形の煉瓦の壁に囲まれた部屋。古風かと思えばやたら近代的な汚らしい便所。体重の軽い僕でさえ軋む寝具。懲罰房だろう。第一収容棟にもこんな場所があったのか。
「懐かしいな……」
「馬鹿か貴様は。こんな牢獄の何がいいんだ」
僕の零した言葉が滑稽だったのか、ヘレンは口を抑えながら笑っている。
「仕方ないだろ。もう一年以上住んでるんだから。実家だよ」
「じゃあ、現在貴様のママは大激怒だな」
「反抗期で極刑。裏には母親との秘密の関係が……。世界の恥晒しだ」
「やったな。私と肩を並べたぞ」
「変態と魔王を同一視しないでくれ……」
僕もヘレンにつられて笑った。ここはディープ・プリズン。全世界的な監獄。国、人種、宗教、文化のサラダボウル。産まれた世界は問いません。魔術の有無は重要ではありません。そんな架空の求人広告を想像して嘲笑が漏れた。
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