応援コメント

6.むすびに」への応援コメント

  • 東さま

    非常に面白く拝読しました。
    私はまた、怒りを身体の運動に任せ制御を試みることも内省の進歩に重要と考えます(ただし継続し技術的な向上を志向する限りにおいて)。
    ここでいうアンガーコントロールとは、発作性が違うかもしれません。パトスというより、ひとえに攻撃性というべきでしょうか。
     運動や武道など、はじめはただ滅法に腕を振り回していたものも、嫌というほど毎日やらされ、ついにやめられなくなると身体も頭もなにやら考え出します。
    こういう場合どっちが主体となっているのやらこれもまた考え出すと面白そうですが、一芸一心(信心・思考含む)を修める内にしか恒常的な感情制御術は成っていかないのではないか、というのが人間論的な私見です。
    人格形成なんて立派なものは存在しないという立場ですし、反倫理的な方向に走る輩もまた多いので、吟味の余地が多分にありそうですね。おそらく修めるだけでは決定的に要素が不足なのでしょう。

    すいません。「えーい、とカラダに任せて飛び出してみるのもひとつのキッカケかも」と言いたかっただけが、ひどく冗長になりました。たのしい読書のひと時をありがとうございました。

  • 私が誤読している可能性が高いのですが。

    文章そのものが激怒しているようにしか感じられないし、還暦の私よりも大人びているのは、怒れる老害をワザと表現している壮大なギャグなのでしょうか?

    作者からの返信

    尻鳥雅晶様

     まず、私のような者の文章を最後までお読みいただいたことに、感謝申し上げます。

    「(本を)誤読している可能性」についてですが、「誤読」という言葉の意味は、「正しく読めていない」と定義してよろしいと思われます。そのうえで「誤読している」という状態(現象)について考えてみますと、誤読をしている対象の性質(この場合、文章の性質、誤読に対する目的語の性質)によって、その状態が持つ価値も異なりますし、誤読か否かを判別する規準も異にすると思われます。
     少し、頭の固そうな文章になってしまいましが、例を述べると以下のようなものです。
    「論文を誤読した。」
    「小説を誤読した。」
    「評論を誤読した。」
    「新聞を誤読した。」
     など、一口に誤読と言っても様々です。ですが、目的語が論文、小説、評論と続くように、それぞれの状態に、それぞれの価値、規準があるといえます。
     例えば、論文を誤読するとは、論文の中にある事実、あるいは概念を読み間違えたことを指すといってもよいでしょう。ですが、論文を読むにあたって、著者の心象までもを察する必要はありません。ゆえに、論文を誤読したか否かを判別する規準は、「単に日本語(欧文)で書かれた学術的概念を理解できたか。」という点に執着しますし、そこで生じる価値は「善・悪」どちらかといえば、概念は事実判断が可能な形式であり、これが好ましくない影響をもたらす以上、明確に悪といえるでしょう。
     では、小説はいかがでしょう。小説においても、論文のように、「言語で書かれた内容を理解できなかった」ことを誤読といえるでしょうが、単に内容の誤読といっても「作中での概念への誤読」、「作中での観念への誤読(心理描写など)」、「著者の観念への誤読(思想)」などに規準を分類でき、したがって、単に誤読といっても、いずれの規準から誤読と言うかにより、「誤読した」という状態の価値は大きく異なると思います。例えば、「作中の概念」に対する誤読は作中においての事実(⇔価値)を正しく理解できなかったという点で誤読と言え、その価値は、悪になる場合もあり得ると思われます。
     一方で、「作中の観念」「著者の観念」への誤読は、そもそも、人によって規準があいまいです。観念は概念のように数的に処理し得ませんし、数的に処理ができないということは、論理的に処理できないと言っても過言ではありませんので。したがって、人によってあいまいな規準になるわけです。また、その誤読の持つ価値においては、あいまいさが、小説に対する見解の多様性、作者像の多様性を豊かにしたという点において、むしろ「善・悪」の価値判断においては善とさえいえる場合がほとんどと思われます。
     それでは、この場合(私の文章に対しての誤読」ではどうなるでしょうか。まず、お断りしなければならないのが、この文章は「評論」と題していながら、殆ど「エッセイ」に近い性質を持っていますし、私自身、自分が書いている文章について、どのジャンルに当てはまるかよくわかっておりません。ですが、一貫して著者(私)の思想(観念)が主張されていることは間違いありません。ゆえに、この文章における誤読を分類するのであれば、その誤読(集合)において、上の小説のところで言いました「著者の観念」が必ずや要素として含まれることでしょう。また、貴殿からご指摘授かりました「激怒しているようにしか感ぜられない」という点は、まさに「著者の観念」の一つといえる(厳密には違うかもしれません)「パトス」に対する読解といえるわけです。
     ゆえに、この場合においても、人によってこれを誤読とするか否かの規準はあいまいです。それに、上に述べたように、このあいまいさこそが、学術で割り切りがたい微妙な人々の思想、想い(⇔概念)を多様にしてきたとさえ思われますから、私は、私がどんな思想を持っていると他者から思われようとも、いずれも正しいこと(正しい読解であると考えます)。

     本当は、もう少し、作品に即した返答がしたいところでありますし、このあいまいな一般論を述べた返答がゆえに、貴殿から「あんたは結局、激怒していたのか、激怒していなかったのか」と詰問されても仕方ないと思われます。しかし、ホントウに、激怒して書いたところもありますし、冷静に書いたところもあります。貴殿のご指摘のように、多少ギャグ的意味合い、皮肉的意味合いを込めて書いたところもあります。ゆえに、一概に「ギャグでした」「激怒して書きました」とは言い難いのです。大変申し訳ありません。

     もし、今後、その点について明確にご指摘いただけるようでしたら、何か別の返答を差し上げることができるかもしれません。わたくし自身、還暦の方から文章のご指摘を頂くことは殆どありませんので、勉強になる次第であります。何卒、よろしくお願い申し上げます。
           

                                                                   
                           東哲信

    編集済