3.進化としてのアンガーコントロール
さて、ここにきて多くを語る必要はないとさえ思う。しかし、本題(アンガーコントロール)に入る前に今一度、怒りが及ぼす顛末について整理しておきたい。
先に述べたように、生物が外界の変化に対して、エネルギー交換を無頓着に行えば、(例えば、外界の温度が二百度になっても、生物側が無頓着に二百度分のエネルギーを吸収してしまえば)やがて生物自体が死に向かい、生物としての形体はばらけ、再びエネルギーは自然に帰っていくことだろう。この場合においても、別段、自然という尺度でみれば問題こそないが、生物という、種の保存を本能とする有機体にしてみれば、大きな問題であり、故に、生物は環境に適応(進化)するのであった。私は、この生物の死、と進化の関係は、人間が持つ怒りについても当てはめて考えることが可能と考える。つまり、我々人間も、自認と承認のギャップゆえに、怒り、そうして、その作為として罵声、暴力、戦争などといったエネルギー交換を行いすぎれば、自らを滅ぼすことになりかねないということである。こう言えば、どこか脆い桟橋のごとき主張にも聞こえるが、例証は私の醜い唇よりも事実を語っていよう。例えば、腹が立って人を殴れば、(殴らなくとも罵声を浴びせることにより刑法に抵触すれば、)その行為者は(特に、SNSにおける卑小な連中が、怒りに近い正義感を振りかざしている現代においては)社会的な地位を失し、つまりは、社会的に死ぬことは自然である。なぜなら、彼(犯罪者)は、怒りに任せてエネルギー交換(犯罪)を無頓着に行ったわけであるから、自然に当てはめて考えるなら死んでも仕方あるまい。だが、もし、ただ、死ぬ運命を迎えるのではなく、進化さえできていれば? つまり、外界からの刺激に過敏に応答せずに済む進化を遂げた生物のように、彼も、ギャップについて怒りの作為を起こさずに済んだのであれば? 彼は、社会的に死なずにすんだはずなのである。
補足的にいえば、進化には二種類あると言える。それは、先ほど述べた個人が単独で進化する場合と、後述するように、社会全体が進化する場合の二つである。
自然が生物を内包する場合、生物間の相互の働きが自然を形成するように、社会(コミュニティ)もまた、その中にある個人間の相互作用の働きによって形成されるわけであるから、社会における大多数の人間のうち、誰かが過剰にエネルギー交換をしたとしても、うまく往なしてやることさえできれば(つまり、社会が十分に進化していれば)、彼(犯罪者)は社会的に死なずに済んだのかもしれない。例えば、SNSにおいて人の失敗でセンズリを掻く、自称正義のヒトビトが、自らの作為が、自らの歪んだ怒りによる作為であったと反省し、これからはSNSで過剰にエネルギー交換をせず、社会全体がよりよくなるように、厚生施設を充実させよう。という思想になり、じっさい、これが実現し、社会全体が進化すれば、彼は社会的に死なずに済んだどころか、平和な社会を構築できたのかもしれないのである。
だが、この二種類の進化いずれにあっても、結局は各人単独の進化が達成されぬ限り成り立つことはない(自然界も同様である。突然、すべての個体が変異するということはめったにない。交配により波及していくのだ)。ゆえに、怒りにより人が死なずに済むためにも、今、人々は政治にばかり文句を言わず個人レベルで進化すべきで、その重要項目の一つがアンガーコントロールであると言えよう
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