2.なぜ、人は怒るのか
そもそも、人はなぜ怒るのだろう。
例えば、水分子は開放系に静置しておけば、界面の向こう側とのエネルギー交換が最も少なく済む点(温度)に落ち着く。自然とは、このように、なるべく安定な場所へと向かうようにできている。だが、先に述べた安定な温度に落ち着くための過程おいて、二者の間でエネルギー交換が盛んにおこなわれていたことを忘れてはならない。少なくとも。界面の内外で保有するエネルギー全般の収支がはじめから一致している場合を除き、二つのものが触れ合うとき、必ずやエネルギー交換は行われるのである。また、たいてい、エネルギーの差分のある二者が安定な状態に達するためには、一方がエネルギーを打ち放ち、一方がエネルギーを受け止めるという半ばリンチのような現象が起きてい、さらにいえば、しばしばこの場合でいうエネルギーの受け取り手自身もまた、持て余すほどのエネルギーを解消するために、何か他の対象にエネルギーを受け渡すわけであって、その連鎖のなかに自然の安定はあるといってもよかろう。
生物も同様である。生物も、ガソリンこそ食わぬが、他の生物は食う。他の生物からエネルギーを抜き取る。そこで生じたエネルギーを生物体特有の活動に変換し、ひいては、その活動によって生じたエネルギーの受けてもまた、他の生物の群―生態系―であるから、これを内包する自然は“通常は”安定にある。また、生物にとってのエネルギーの供給体―生態系や環境―の変化が現れた時、多くの生物は絶滅に至るが、そうした場合においても、自身らの有機体に含まれていたエネルギーが自然に解放されるという点において、これもまた、自然が安定な状態に向かうための一つのセオリーといえるのである。
さらに、こうした生物が死によって自然の安定に貢献するという現象に対して、進化を遂げることにより死から逃れるー適応するー生物もいる。しかし、いずれにしも同様で、進化とは、環境に適応するために生物が遂げる発現系の変異なのであるから、生物自身が、生物たらしめる形体を確保できるだけのエネルギーの保存形式を、確保、あるいは手放す(死)ことによって、安定な状態を確保しているまでのことなのである。つまり、進化も絶滅も、結局は何らかの安定をもたらすわけであるが、二者の違いは、自身を守るか、自身を囲む超越的存在の安定を守るかの違いに過ぎない。(尤も、無生物空間が自然と定義できるかは言葉の問題になるだろう)
さて、前置きが長くなったが。人が怒る理由というのも同様である。自認する自我(内界)と、承認される自我(外界)が一致している状態において、個人のアイデンティティーは確立されるという。もし、そこに要求が生じる場合、つまり、自認する要求(かくありたい、あるいはかく対応してほしい)、と、これに対して承認する要求(かく認めてやりたい、かく対応してやりたい)が一致しない場合において、自認する要求の持ち手には不満が生じ、怒りが生じ、一方で要求が満たされた場合においては満足が生じる(アレ。怒りのアントはなんだろうネ。太宰クン)わけである。
つまり、怒りの理由とは、自己と他者とのギャップと換言でき、さらに言えば、怒りによる罵声、怒りによる暴力、怒りによる戦争は、自然界で起こるエネルギー交換のようなものとみなすことができよう。そう思えば、人が怒ることは自然な営みなのである。それは、なにも罪悪なことであるまい。だが、人がまったく存在しなくなったら、もはや社会がそこにあるとは言えない定義上の結果から考えるに、人が自身らを亡ぼすほどに怒る戦争という営みの、さらに先にある顛末が、形を問わず何らかの安定に貢献するかは不明である。
思えば、昭和から平成にかけての随一の名優―高倉健―の名言が突き刺さる。
「人に裏切られたことなどない。自分が誤解していただけだ」
この、重厚にして多くを語らぬ、かの人らしき言葉の指し示すところは、専ら、一つのアンガーコントロールとして受け止められることが多いが、一方では、怒りが自認(主観)と承認(外界)の間のギャップにより生じるという、小手先の世渡り文句では触れることのできない根源的な発見(これも哲学と言っちまおうか?)が深く根差しているのである。
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