第9話

その後、僕は3年ばかりフリーですごし、そして代理店時代の仲間がやってるデザイン事務所に就職した。司はその間に見合いで結婚したものの、奥さんは海外に単身赴任しちゃったので、結局一人でぶらぶらしてるようだった。

僕はそのうち『特別仕様』を意識する事がなくなってた。

居なくなった相手を思うのと、居る相手を思うのじゃワケが違うからな。

それでも司は重要だった。

いつでもいつあっても司は新しい面をもっていた。

司は『特別仕様』でなくなったかわりに、学習した新しい風景を僕にみせてくれる。

いつ逢っても「最近どうよ?」っていってくる。

司には「いろいろある最近」があっても僕にはないのにな。

っていつも思う。

「やっぱり『特別仕様』だ」

最近見つけたお気に入りの洋食屋。

渋谷のまちなかにあるのに、ビーフストロガノフとエビスビールでマナー範疇。しかもウスターソースかけたキャベツの千切りもオーダァできちゃう。

そしてこんな店だからか、信じられない程若いコがいないのもいいところだ。

司は苦笑した。

あきらかに

「その台詞さ〜、辛いからあんまりいわないでよ。俺がやっぱり異邦人だって意識しちゃうじゃない?」

そういってビールをのむと

「やっぱり俺は人魚姫でしかないのかなあ?」

僕は絶対にききかえす『顔』をした

「だからさ、俺にはいろんな事が衝撃なわけだけど、それすらも普通はこんな受け止め方じゃないのかな?とかこのシーンではどういう表情が適切かな?とかいろいろ考えてるわけよ。俺とは別の俺がね」

手酌でビール。

ピッチがはやい

「例えばさ、この前会社の上司に転属をほのめかされた時とかもそうで『もっと深刻そうな顔したほうがいいかなあ?』とかいろいろ思ってるんだぜ? そういうのって考えるもんじゃないでしょ?感情でしょ? 俺、もしかして緑が見えないだけじゃないんだな、ってそのとき改めて認識しちゃいました」

「大変だ…」

「大変だね。衝撃としてはかなり衝撃だったし、楽しんだけどね」

司はしばらく黙ってた

僕もつられて黙ってた

「あーもうね。会社に辞めるって上司にいったときですら、こんなにショックじゃなかったのにね」

司は無理して笑おうとしてた。

こんな複雑な反応は今までみたことがない位、複雑な反応。

何を学習したんだろう。

こんな感情、学習する必要なんて絶対ないのに。

複雑だった10代を捨てたから今があるんじゃなかったか?司の将来は順風満帆じゃなかったのか?

「中原、俺ね、アメリカで研究することにした。いわゆるヘッドハンティングです。このまえから、今までに何度かそっち、見に行ったりしたんだよ。水もあってると思う。少なくとも会社で働いてた程の違和感はなかったよ」

司は僕をみていない。

目がテーブルのあたりで泳いでた

「やっぱり俺は魔法使いに騙されちゃったんだ。俺は人魚姫だったんだよ」

このものいい、普通の大人の男としちゃあマトモじゃない。ここだけとればね。

でも前後をしってる僕は頷いてみせた。

見えてない筈の司はタイミングばっちりのところで続きを話しだす。

こういう時の雰囲気って言葉じゃなくて伝わるのはなんでだろう。

「多分これからおこることの多くは、僕には理解できない事が大半だろう、って想像もつく。日本も親も環境も中原も捨てて行っていいのか?って誰かに止めてもらいたい気もする」

「止めたって司はいくよ。だって人魚姫だもん」

今度は僕の話す番だ

「何メロウになってるんだよ。一生の別れじゃあるまいし。戦前のアメリカで船で数十日ってんじゃないんだよ?飛行機で半日ちょいじゃんか。何いってんだ。捨てる程でもないだろ?」

「俺は多分不安なんだよ。そこで馴染んだら今までの全てを忘れてしまいそうで。数年たったら捨てられそうで」

「あーいわゆるマリッジブルーだ」

司は深刻だが、僕にはお笑い草だった。

「大丈夫だよ司。アメリカにいったからって友達やめる気じゃないんだろ?だったら平気。メールもあるし、電話もできる。気軽に呑みにはいけないけど、飛行機にのれば会えるんだぜ?」

「中原は、平気なのか?」

「平気かっていわれると、平気じゃない。でも司が新しい風景を手にいれようとしてるのを止める気にはなれないな。……ああそうか、人魚姫の親とか友達とかもこんな気分だったんじゃないか? 彼女より司がすくわれてるのは、司には戻れる場所があるってことだ。よかったな」

司はやっと顔をあげた。

僕をまじまじとみた。

「なんでそんなことが信じられるんだ?離れてしまったらおしまいって危険性をなぜ考えない?」

僕は勿論まともに答える事もできた。

数十年あわなかった僕らがまたこうやって飲めるのと一緒だから。

執心の度合いで全てが決するわけじゃないけど、感情はきっと空間も時間もある程度は超えられると実証済みだったし、なにしろあのときと違って途中で連絡もできるから。

でもそれをまともに司の顔をみていうには気恥ずかしかった。

今日の司はまるで高校生なみだ。

人魚姫はファンタジーだっていってバカにしてた相手は、ずっと前からファンタジーの世界にドップリつかってる。

つかった司はいくらでも気恥ずかしい台詞を口にできるのだろうけど、僕は無理だ。

僕はもう高校生の気分なんてすっかり忘れたただのオヤジになりさがってたからね。

「だってこれはファンタジーだから。最期は絶対に『めでたし めでたし』で終わるのがセオリだろ?疑う余地はないよ。司は新しい風景をまた手にいれて、僕にそれを教えてくれればいい」

ああいつからだったろうな。

司がほしがっていた僕の風景よりも、僕が司の風景をほしがるようになったのは。

『特別仕様』を崇拝してたあのころよりももっと具体的に欲しがってた。

あまりにも自分がそれじゃかわいそうで口にできなかったし、具体的に考えようともなかったけど。

司は心無しかホっとした顔をした

「そうか」

とだけいった。

僕はやっぱり科学者はロマンチストなんだと実感した。


数ケ月後、成田に見送りにいった僕らはラウンジでお茶をして、それで握手でおわかれした。

その手を離してしまったことをやっぱり、成田エキスプレスの中で長い間後悔したんだけどね。

僕は嘘つきでどうしようもない。

多分不安なのは司より僕だ。

人魚姫の家族や友達はどうしてたんだろうなあ、ってそのとき漠然と考えて、少し自分を笑った。

何メロウになってるんだ。成田の所為かな? 僕はつくづく影響をうけやすい。

でもいろいろひっくるめて全てが僕なんだなあ。

ああそうか。これを生きるしかないのか、って何となくだけど初めて実感した気がした。


僕はそのときはじめて『特別仕様』の入り口に立てたんだなあって気付いたのは、それから十数年たった後だった。

外国の墓地は公園のようにひろく、墓石はひらぺったくて、どうやって花を置いていいのかもわからない。ローマ字でかいた司の名前は実に他人行儀で僕の知ってる人ではないようだった。

いや実際他人かもしれないな。

だって僕の中ではすっごい前から、司は司じゃなかったんだから。

実際の司はここにこうしているのかもしれないけど、僕的には違う人でもいいかなあ? sダメ?

『そんなファンタジーじゃないんだから』っていって司に叱られそうだけどね。

「司さあ…… めでたし めでたしって観客に言わせるのがファンタジーの世界の住人の最低マナーだろ?」

そばにいる奥さんはあきらかに首を傾げた。

僕はそれを視界の端で確認し、説明したもんかどうか真剣に悩んだ。

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