第5話

午後になってやっと起きた僕は、近所の喫茶店に逃げ込んだ。

薄暗い半地下。しかも今どき名曲喫茶だ。

僕はクラシックはよくわからないけど、嫌いじゃないんだなあ、ってここにきて気付いた。

最初はなにげに入ったんだけど、よくもまあ、こんな店に入ってみる気になったよなって雰囲気だ。

入ってしまえばマスターは気さくそうな、僕より10歳程度上の男だし(2代目らしい)、コーヒーは美味いし、かなり気にいってた。

禿げたビロードのボックスシートのソファに身をうずめると、薄ぐらいダウンライトの下で池波正太郎。

粋というよりクールでハードボイルド。

チャンドラーなんてメじゃないって、鬼平犯科帳を読みながらおもうのは間違ってるのか?

猫舌の僕はコーヒーが冷めるまでまって、口をつける。

それに気付いたマスターが冷めても美味しい豆にしてくれたのも通うようになったきっかけだ。

その事をマスターに感謝したら彼はこういった

「それが商売ですから。気になるんですよ。そういうことがヤタラ」

エンドユーザーとつきあうことのないデザイナーって商売がそのときに一寸嫌になったのも会社をやめようとおもったきっかけだったなそういえば。


コーヒーの2杯目をオーダァすると、今どきスゴイ、ピンク電話から司に電話した。

手帳の番号は045からはじまってる。横浜のどっかに司は住んでるんだ。

勿論留守電になってるのでメッセージをふきこむ

そのメッセージも考え済だった。

「お久しぶりです。高校の頃お世話になった中原です。色々あってまた東京にもどってきました。出来れば会いたいので連絡もらえませんか?番号は…」

夜になって電話すればいいのに、それはしない。

これは一種のカケだった。連絡をくれなければそれまでってタイプの…。

コーヒーをカウンタでいれてくれてたマスターがちょっと微笑った

「元彼女とかですか?」

僕は首を振った

「ある意味、もっとあいたいひとですよ。でもちょっと家で電話するには非日常すぎるひとなんです。もう10年以上あってない。でも僕に決定的な変革をもたらした、ターニングポイントに居た男です」

平日の昼間、店にはだれもいない。

真空管アンプをとおして聞く曲は、どれもがなんだかやさしげだ。

マスターはカウンター席にコーヒーをコトンとおくと、

「おごりますから、話聞かせてもらえませんか?」

といった。僕はそんなことしてもらわなくても話す気になっていた。


司の特別仕様について他人に話すのはこれで何度目だろう、と話しながらおもった

彼の事を話す度に、そのひとたちのなかに司の芽が育つような気がする。

こんなにも他人に影響を与える人物も珍しい気がする。

マスターは自分用のコーヒーをのみつつ、軽くうなずいてきいてくれた

「成程ねえ。そうなんですか」

「ええそういうわけで、僕はその司にあわないといけないんです」

「いけない気がしちゃったわけだ。そういうのって会わないと収まりませんからね」

彼は今まで見たことない程の、地の出ようだった。

こんな商売をしてる所為か、年齢は積んでるようなんだが、実は僕よりは若いのかもしれないと、フっともらしたその笑顔でおもった。

「10数年前の知り合いに会うのって、勇気いりませんか?全然ちがう人物になってたら逆にガッカリしますよ。勿論それが新鮮だったりすることもあるでしょうけど……初恋の相手にあわないほうがいいのと一緒な気がします。故郷は遠くにありて思うもの理論です」

そんな理論、きいたことがない。意味はわかるけど。

「中原さんが知ってるそのひとは、中原さんのものであって、もうそのひと本体じゃないですからねえ…」

「その変革もふくめて、僕にとっては多分司ですよ」

「自信ありますねえ…っていうか余裕なのかなあ?自分の中で消化しきってるって事ですか?」

終わったアナログレコードをひっくりかえしてそっと針を落とすと彼はそのまま言葉をつないだ

「私にとってのこの店はそういうタイプのものでして… 先代は私の叔父なんですけど、子供の頃記憶していたこの店を、実家の方で失業したのをきっかけに急遽継ぎたくなりまして… やってきたら、記憶よりボロでびっくりしましたよ。それから一生懸命記憶に近づけようとがんばってきたんです」

彼は本当に僕より年が下なのかもしれない。

とてもじゃないけど僕にはもう無理な、目のなくなる程の笑顔だ

「その記憶って、多分自分の中で美化されてるんで、昔っからこういうボロだった気もするんですけど、まあいいかなって… 相手は店ですからやりたい放題でしたよ。叔父もつぶすよりは、って気持ちだったんでしょうね」

「いや。叔父さんは多分嬉しかったとおもいますよ。それって記憶を継ぐってことだから」

「上手いこといいますね …あ、中原さん代理店勤めだからかな?」

「本気ですよ。マスターは叔父さんの意思を、僕は当時の司の意思を継いでるんです。途中、かなりの時間忘れてたけど、そこをすぎて今の僕があるんですから、多分継いでるんですよ」

突然おもったけど、そんな気がしてきた。

僕は司を継いでいる。

勿論特別仕様なんかじゃないけど、とりあえず疑う事を続けてきたんだ。

いろんなものを

それがいい時もわるい時もあったけれど、まず疑う事を。

そう思うとヤタラと嬉しかった。

なるほどねー、なんてマスターが関心してる間に、他の客がやってきた。

そこで会話はとぎれて、僕は間もなくして帰宅した。


そして今度は僕の留守電に思いがけずにメッセージが残ってた。

夕方前なのに、司からだ。

勿論外からチェックしたんだろう。賭けは僕の勝ち。でもそのレスポンスの早さに僕は逆にあがってしまう。

あれだけ喫茶店で余裕かましてたのに、なんだこの動揺し具合は。

最初の1回の再生では、意味が理解できなかった。

2度目は声に聞き惚れた。所詮、電話線経由のしかも録音なのに。

3度きいて、やっと言葉が頭の中でつながった

「あーもしもし。お久しぶりです。間違い電話じゃなければ、中原だよね?お久しぶりです。ウチをつきとめてくれただけでも感激です。ぜひお会いしましょう。ケータイは…」

僕はそのテープを10回程再生し続け、ちょっと涙ぐんでいた。

僕を覚えててくれた。

僕の行動に感激してくれた。

覚えてる司の声や態度よりもずっと人間的な対応の、大人にバージョンアップした司と会えるチャンスがもうココにあった。

手をのばしたらつかめそうな距離に。

それだけで実は満足してしまった。ケータイの番号を手にいれたのでいつでも連絡できる、そう思ったら、途端にこわくもなったけど、大人に成長した筈の僕だって、司に連絡しない訳にはいかないのだ。

冷蔵庫からミネラルウォーターをだし、大きなコップになみなみと注いで一気のみ。

何故か顔をあらって歯をみがくと、僕は受話器をとって、控えた番号に電話をしはじめる。

間違えないように。

コールがはじまる。

電話にでますように。でませんように。

手は汗ばんでくるし、胃がドンヨリしてきた。

こんなプレッシャー、ここ何年も経験してない。

司の存在は、あきらかに僕の時間を引き戻していた。


「あーもしもし。司です」

そう名乗ってるから本人だ。

頭の中で鐘が鳴った。

「中原です。お久しぶり」

僕はとうとうやったのだ。

そう思ってから自分でわらいそうになった。

いったいなにを?

なにも始まってはないのだ。

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