第3話 冥土のメイドさん
八坂が最初に感じたのは身体に血が巡っている温かさだった。どくどくと脳に血が流れてピクリと動く指先が、生を証明している。
「え……?」
声帯が震える。空気に振動が伝わって、それは確かに声となって反響した。
最初に視界に映った天井も、今自分が握りしめていた布団も、枕も、四方を囲む壁さえも白い。しかし西洋風の家具が並んで装飾が施されており寂しさは一切感じなかった。あの場所とは対照的だ。
(あれ、あの場所ってどこだっけ……?)
かつてないほどすっきりした目覚めだった。こんなに頭が冴え渡る目覚めはいつぶりだろうかと、思わず吐息が出てしまうほどに。
それなのに何かが思い出せなかった。
ほんの小さな違和感は、まあいいかとすぐに押し流される。それよりも今の状況を理解する必要があったからだ。自分が倒れた後どうなったか。ここはどこなのか。それが今知るべき情報であると確信していた。
しかしベッドの上から上体を起こした八坂は、ある問題に直面する。
「ん……。って、ちょ、待って待って待って」
重力に逆らって捲れた布団。その下の己の姿。
上品に言えば生まれたばかりの姿で、直球に言うとすれば、そう。裸だ。
「ぁぁぁぁ……!!」
思わず小声を出して布団を頭から被る。
「(なんでなんでなんで!?)」
誘拐とか強姦といった穏やかではない単語ばかりが脳裏をよぎる。少なくとも八坂は裸一貫で寝る習慣はない。まさか自分で酔っ払って脱いだのかとも思ったが、生まれてこの方潰れるまで飲んだことはない。つまりは第三者、自分ではない誰かがーーーーーー
「शुभ प्रभात!」
「うわあ!」
扉の開閉音と共に聞こえたご機嫌な声。弾んだ女性の声に思わず布団とシーツを握りしめて丸まる。まるでダンゴムシの様になった八坂に、その女性は驚いた様子だった。
「あらごめんなさい。つい昔の言葉が出ちゃったわ。……色々聞きたいことはあるでしょうけど、まず顔だけでも見せてくれないかしら」
これが見た目厳つい大男だったり、いかにもヤのつく世界の人間であったら、八坂はそれに答えなかっただろう。
しかしその声があまりにも穏やかで自分の母を想起させるようだったものだから。だからつい、顔を覗かせるのも仕方がないことである。
わずかな隙間から見たその人は、焦茶の色素が強い肌をしていて、ローズレッドの垂れた瞳が印象的だった。
この人は多分大丈夫だと本能は囁く。優しい人のオーラというのはなぜか一目でわかるものだ。八坂の鼓動が次第に落ち着いたのはそのオーラに当てられたからだろうか。
「……す、すいませんこんな格好で」
「ありがとう。まずは寒いでしょうし……服を着ましょうか」
「は、はい」
なんとも話が早い人だ。そんな八坂の心を見透かして女性は笑う。
「ごめんなさいね、きっと困ったでしょう?気持ちは分かるわ。訳がわからないのに急に裸になってるなんて不気味でしかないもの」
「……」
「ここに来る人は大体最初に服を要求するのよね。だからもう用意はしてあるの」
メイド服の上の巾着ポシェットから取り出したのは、何枚かの写真だった。それを全て八坂に渡して微笑む。
「この中から選んでね」
「わかりまし、た……?」
てっきり私服をイメージしていたが、予想とは全く異なるものだった。
黒色や灰色、紺色など様々なバリエーションはあるが形はどれも同じ。職場で見かけるようなスーツはどれも馴染みのあるものばかりだ。
「カラーだけじゃなくてパンツかスカートかも選べるわよ」
「えっあっ、そうですか……。その前にお聞きしてもいいですか?」
「ええどうぞ」
「……なんでスーツなんです?」
例えばこういう時、動きやすい服だとか破廉恥な格好だとか、ほぼ娯楽に寄った服装であることが多いと思っていた。(後者に関しては二次元でしか見たことはないが)
少なくともバリバリに仕事をこなしますといった服を選ばせるとは、ますますここがどういう所なのかわからない。
「それはね、これからわかるわよ!」
「ええ」
なんともフワッとした返事。うふふと上品に笑う彼女の表情は、楽しみですと言わんばかりの笑顔だ。
訝しげに首を傾げる八坂だったが、それよりもあるものがないことに気がつく。着衣する上で欠かせない物。
「何度もすいませんが、その〜……下着的なものも貸していただけたりします?」
他人に下着を借りるのは心苦しい上に恥ずかしいのだが背に腹は変えられない。
「もちろん大丈夫よ、セットであげるわ。……まずスーツを選んでもらってからになるけれど」
「ええと、それならこれで」
八坂が選んだのはオーソドックスな黒色だった。
「パンツ?スカート?」
「……パンツスーツで?」
「ネクタイの色は?」
「なんでも大丈夫です」
「靴のヒールはどうする?高い方がいいかしら」
「低い方がいいですね」
「カッターシャツの色に希望はある?」
「うーん……白、で」
怒涛の質問量だが落ち着いてゆっくりと返答していく。ここで全て「なんでもいいです」と返答するのも、それはそれで相手が困るだろうと思ったが故だ。
下着も含め一通り質問に答え終わると、メイドは再びポシェットの中からあるものを取り出した。
「スマホ……?」
その独特の黒い板には見覚えがある。見覚えどころか使い慣れてすらいる現代の叡智。しかしこの部屋のシックな雰囲気や、おっとりとしたメイドという存在との温度差がひどい。
「これはね、“モバ”と呼ばれているわ。使い方は……その様子だと知ってそうね!確かあなたって“9の座標”から来たものね」
「……えっと?」
「まあとにかく、使い方はあなたの想像しているものと同じよ。電源を入れてスライドなりタップなりすれば色々できるわ」
八坂は突然出てきた用語を理解できなかったが、追求する気力も起きなかったので流すことにした。そんな八坂を気にすることなく慣れた手つきでモバを操作するメイド。その指先すらしなやかで、手袋をしているが爪の先まで手入れされているだろう姿に八坂は感心した。まさに上品を体現したような人間である。
「はい、それじゃあホームボタンを押してね」
待つこと数十秒。スッと差し出されたモバの画面には、先程八坂が質問に答えた通りのスーツの写真が写っている。指紋ひとつないつるりとした画面。言われるがままにホームボタンを数秒押せば、ポンと小さな音が鳴る。
「え?」
そしてすぐに気がついたのが肌に擦れる布の感覚。布団の隙間から覗いた八坂の腕には、カッターシャツとその上に黒い袖が見えた。
思わずモバを落としそうになって、慌ててもう片方の手を添える。メイドは特に慌てることなく「大丈夫よ。これで登録完了だからね」と声をかけるだけでいたって冷静だった。
「……」
そっと布団を捲れば、全身を黒色で包まれた自分。
八坂は忙しなく瞼をパチパチとさせて固まる。この一瞬のうちに何が起こったのか。
「これはカスタマイズした服に一瞬で着替えられるアプリなの。頭から爪先まで、下着から靴までね!」
「へ、へえ」
八坂の脳内に『お前は何を言ってるんだ』と外国人のテロップ付きの画像が思い浮かぶ。が、すぐに脳内から消した。
「最後にひと仕上げしたいから出てきてほしいのだけれど……いいかしら?」
「今出ます」
そしてゆっくりと地面に足をつけてみれば、確かに感じる重力。いつの間にか身に纏っていたスーツの着心地も良く、引き締まったように感じるのに動きやすい。
二足で立つのがなぜだか久しぶりのようだった。
一応礼儀として布団を簡単に畳んでおくと、「あらあら、ごめんなさいねお手数おかけして」と微笑まれ八坂は癒される。美人の笑顔は性別問わず人を癒すものだ。このメイドの場合はおっとりとした性格も後押ししているのかもしれない。
「それじゃあ後は指紋認証かしら。……はい、もう一度ホームボタンを長押ししてね」
「え、なんの認証ですか?」
「そうねぇ、色々説明したいけど長くなっちゃうし……。後で聞くことになるかしら?まあ簡単に言えばこれからこのモバはあなたが所有者になるの。だから所有者登録したくって」
「んんん?」
「安心して。闇金とか連帯保証人とか違法なアップロードとかじゃないわ。あなたの指紋で悪いことをするわけじゃないの」
随分と具体的な例である。
慌てて訂正して頭を下げるメイドに八坂は何も言えなくなった。時には流されることで次の展開が見えることがある、というのが八坂の信条であり、言われるがままにホームボタンを押すと『登録ヲ完了シマシタ』と機械的な音声が流れる。続けざまに『ご登録ありがとうございます』とブルーバックに表示される文字。見慣れたゴシック体に思わず安堵した。それは読み書きや話すことによる、意思の疎通が可能だということを表していたからである。もし万が一英語やヨーロッパ圏などの言語が使われていたらどうすることもできなかっただろう。
「なんで私にって聞きたいところですけど……後で聞くことになる?んでしたっけ」
「そうね、私から話しても良いのだけれど時間がなくて……」
「ごめんなさい、もしかして私のせいで時間なくなってます?」
「あ、いいえ違うのよ!私は問題ないのだけれどあなたの時間がないって意味なの」
「私の時間?」
「ええ。あと15分ほどで新人研修だもの、急がないと間に合わないわ!」
「待ってください意味わかりません」
突如落とされたのは核爆弾。八坂が温度を無くした声でつっこむのも無理はない。かつて八坂自身も参加した社会人として最初に訪れる壁。流れに身を任せろとは言ったが、辿り着く先がこれまた労働とは。
「(15分……?もし10分前行動に厳しいところだったらあと5分でいかなきゃ行けない?こんな何も知らない状態で、っていうか筆記用具も鞄も何もないんだけど。……いやいやいや違うって!!そもそもなんで?いやここどこ?)」
ふと急に冷静になって、聞きたいことが濁流のごとく押し寄せる。何から聞けばいいのか八坂が迷っている最中、メイドは再びポシェットからもう一つのモバを取り出した。ワンポイントで背面にリボンが装飾されているのが特徴のそれ。何かを確かめたと思いきや、困った様に眉を寄せる。
「あらやだそろそろ行かないとね」
「待ってください」
「登録したばかりだからあなたのモバは色々設定しなきゃだし……私の物を使いましょうか」
「あの」
「ちょっと待っててね……。うん、第6会議室だったわよね確か」
そもそもここはどこですか。あなたは誰ですか。
その質問はことごとく遮られ、トントンと話が進んでいく。そのうち、ああ多分これ夢だなと思い始める八坂だがそれは現実逃避に過ぎなかった。メイドはモバを少し操作したかと思えば、無表情で天井を見上げている八坂の裾をちょんちょんと引っ張る。
「今から場所を移すから私の手を握って?」
もはやどうにでもなれと投げやりなことを思いながら、そっと手を握った。
久々に触れた人の手は温かくて柔らかい。緊張とそれを解きほぐす人肌に八坂はそっと目を閉じる。
ーーーいややっぱり意味がわからん。助けて。
足場が一瞬消えて浮遊する感覚が襲う。
ふわり。
しかしすぐに床に足底がついて目を開ければ、先ほどとは印象が全く異なる部屋が待ち構えていた。
「ようやく一人来たみたいっすねー」
八坂が生前働いていた何の変哲もないオフィスの一室。ブラインドがしまった窓に灰色の大きな仕事机、そしてキャスター付きの椅子を支える固い床。奥に設置された液晶の画面はリモートワークでよく使っていた。設置されたインテリアはあまりにも既視感がある代物ばかり。
そして欠伸混まじりの気怠げな声で八坂に声をかけたのは、ぽつんと一人椅子に座る男だった。茶色い犬の様な耳と尻尾が生えたその青年。頬杖をつきながらふにゃりと笑うその姿に一瞬心臓が跳ねたが、どう見ても浮かれたコスプレをした男にしか見えない。
「うふふ、さあ席へどうぞ。後で紅茶を持っていくからゆっくりしててね」
「……とりあえずオレの隣来るっすか?」
「……はい」
いよいよ世界観がわからない上に情報を処理しきれなくなった八坂は、大人しく従うことにした。
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