第2話 始まりの扉を叩く春雷


ある一人の女性の話をしよう。

それは生きるのに必死で、死ぬ事なんて考える暇もなかった一人の人間。

これは八坂陽陰やさかひかげが“レル”になるまでの一節である。





 いくら健康的な身体をもって健全な生活を送っても短命の者はいる。その逆に虚弱な身体でやりたい放題の生活をしても長く生きる人もいる。神が気まぐれでダーツをして、投げた矢に当たれば終わり。

だから結局のところは運なのだ。


 少なくとも八坂陽陰は前者の人間で、健康で快適な最低限度の生活を送っていた。それなのに、ある日突然訪れた“その矢”が“死”という的に当たったのだ。


「あっ、……あぅ、ぐッ……!」


 会社の冷たい床に手足を投げ出してもがき苦しむ。同僚の泣き叫ぶ声が聞こえ、先輩が大声で救急車を呼ぶ声が頭に響く。胎児が丸まるような格好で胸の辺りを抑えるが、心臓を握りつぶされる様な痛みは筆舌に尽くし難い。

「……はっ、……ぅ……」

 そしてすぐに全ての力が抜け落ちた。

 苦しくて苦しくてどうしようもなかったのに、何かがぷつりと切れたような感覚を最後に全ては無くなった。

AEDが届く時間すらないほど短い間の出来事。その間に最後まで抗った命の灯火は消えたのだ。

 心臓マッサージもAEDも救急隊も、既に意味をなさなかった。

「先輩……!」

啜り泣きながら嗚咽する声がする。

八坂が一等可愛がっていた後輩が駆け寄って涙をこぼすが、こぼれ落ちた涙はもう八坂には届かなかった。

「どうしてっ……」


魂は既に死神の鎌に刈り取られてしまった後だから。






 死ぬ、という感覚を言葉で表すことは難しい。

 ある人はふわりと女神に包み込まれたように穏やかに。またある人は全身の神経が破壊されたかのような強烈な痛みに襲われて亡くなるとか。


十人十色、千差万別の人生の最期だが八坂陽陰の場合は……何も感じなかった。


 心臓発作で倒れた直後はもちろん苦しかったが、意識を失ってしまった後は本当にもう何もなかった。次に意識を取り戻した時にはもう死んでいたのである。

 そんな曖昧な最期だったのだから当然本人は死を自覚することなんてできなかった。

自覚“すら”できなかったと言うべきか。


 彼女は齢二十九。あまりにも若すぎるその人生はなんとも簡単に、呆気なく、安らかに幕を下ろしたのだ。

とはいえそれは新たな第二生の幕開けでもあったのだが、現段階の彼女は知る由もない。


 さてそんな肉体を失って火の玉をかたどった八坂の魂が導かれたのは、巨大な穴の中に吸い込まれたかのような暗い空間だった。風も音も匂いも感覚も消え去ったような黒。ただひたすらに静かな箱庭にぽつんとその存在は取り残されていた。


(ここはどこだろう)

(私は確か、急に心臓が痛くなって、倒れた?)

(真っ暗だ)

(病院じゃない)

(誰かいないのかな、……ううん、やっぱり誰もいないよね)

(あれ、私の身体は……どこ?)


自身の肉体がないことにまず気がついて、歩くことも喋ることもできない魂は暗闇を漂う。そして闇というのは孤独感と思考速度を助長するのだ。

 八坂は一人冷静に感覚を研ぎ澄ませて記憶を辿り、もしかしたらという可能性にたどり着いた。自分は死んでしまったのではないかという最悪の可能性に。


 そして違うと即座に否定するが、判断材料は何一つとして存在しない。これは夢だ。自分はまだ生きている、生きていたいと一縷の望みに縋る人間の魂だ。

生きていると思いたい。思っていたい。


 時間という概念があればきっと短針は何周も進んだであろう。眠ることも目覚めることもできない。肉体はないのにどうしてだか息苦しい。



時が流れて。

時が流れて。

時が流れて。

時折自我すら失いかけて。


そしてある時八坂は悟った。

(これは夢じゃない。私は死んだんだ)


 ああ、ああ。と心が軋んで折れるような感覚だった。

 一度理解してしまえば感情は土砂が崩れ落ちる様に奔流する。

 碌な親孝行もできていないのに死んでしまった己への不甲斐なさに泣きたくなって、恋愛すらまともに出来なかった人生が恥ずかしくなって、まだ語り足りなかった友の存在を思い出して寂しくなって。


 感情が溢れ出すのにそれを表出する身体は存在しない。まだまだやりたいことはたくさんあったのに、そんな想いだけが八坂を支配した。三十手前といえどまだまだ若い芽の精神は、未練やら後悔やらをないまぜにして焼き焦がされる。

しかし時間というのは優しくも残酷であった。


 やり場のない感情を沈静化したのは、ただただ長い時間だった。激情が静かに鎮まる程の時とはどれほどのものかは言うまでもない。そしてまた彼女は悟った。

(死んじゃったら、こんなところに来るんだ)

 いや彼女は悟ったのではない、諦めたのだ。

もう二度と戻れない自分の前世を願って想って俯いた。

(どうして、)


「全く、無駄の多いプロローグだ」


それは春雷。

だったのかもしれない。


「ここまでで1900文字手前か。……長い。死に様くらいもっと簡潔に語ればよいだろうに」


(え?)

 自分以外の第三者の声が響いた。声と言っても空気を震わせて伝わるのではなく、自分に直接染みわたる様な、なんとも不思議な感覚だった。

直後にぱっと現れる光の球。それは人間一人を包めるくらいの大きさだった。


(だ、れ)

 八坂が咄嗟に言葉の意味を理解できなかったのも無理はない。長い間他者と隔絶された魂は、突然の出来事に対応する力を無くしていた。


「魂色は白か。純白とまではいかないが……まあ大丈夫だろう。……ただでさえ適合者は少ないのだから……」

誰に語るわけでもなくその青年は呟く。

八坂が見たその青年の姿は、人ならざる者の美貌を持っていた。

(……こんしょく?……てきごうしゃ?)

突然の情報量の多さについていくことはできない。

考えることを放棄して、ぼんやりと目の前の青年を観察していれば足音もなく静かに八坂に近づいてきた。


「……ん?お前……」

新品同様に皺一つない黒のスーツに身を包んだ男。

白目の部分は鈍い黒色になっており、はめ込まれたパロットグリーンの虹彩は確かに八坂を捉えている。鋭いその視線はまるで値踏みをしているかのようだった。

(綺麗……)

八坂は人間に対して、初めてそんな感想を抱く。イケメンとかハンサムとか二枚目とかそんな言葉では収まらない。チープな言葉では言い表すことも烏滸がましいほどに。

「俺の言葉がわかるのか?一体なぜ……まあいいだろう、素質はあるようだ」

小さな声で呟いた声は八坂に届かない。最も、音として届いたところで思考回路は処理しきれないだろうが。


「さて、時間が押してる」


 青年の無造作な白い髪が揺れた。

行きすぎた美貌はもはや異形だ。月下美人がそのまま人間に化けたかの様な、この世のものではない誰か。

八坂はそんな異形が自分に向けて伸ばす手をじっと見つめる。


「行くぞ」


いくぞ?どこへ?

そんな疑問を張り巡らせる思考回路も閉ざされていく。異形の手のひらの中に吸い込まれるかの様に。

火の玉は消えゆく。この空間の闇に溶け込んでいって、やがて見えなくなってしまった。














[業務報告書]


所属:案内及び転送係

氏名:ワニ

日時:XXXX年 10月6日

座標 :(9,0)

目的:魂の転送

内容:

・座標 (9,0 )から、適合者(以下:八坂陽陰と表記)を一人を見つける。

・生前の詳細情報を確認。

・八坂陽陰の魂を収容し、座標(1,0)へ転送する。

所感:

・己の死を自覚するのに時間を要していたが、正常の範囲内。精神状態にも異常は見られず。

・魂色(こんしょく)は白。だが色自体は薄く他の色に染まる可能性もあるため注意が必要。

・報告者の声が聞こえている様子だったが理由は不明。






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