第9話

 病院に着いた私は、すぐにエレベーターには乗らず、一旦呼吸を整えた。父の病室は、手紙には三階とあった。

 心を落ち着かせて、エレベーターに乗る。

 三階で降りると父の病室の前まで歩き、足を止めた。

 視線を上げると、ドアの横に『海崎弘』という名前が目に入る。どうやら個室のようだ。

 躊躇いながらも、私はドアをノックした。


「はい、どうぞ」


 その声は、父のものではなかった。女性の声だ。それも、年配の。私はゆっくりとドアを開ける。

 中にいたのはベッドで眠る父と、父の母──私のおばあちゃんだった。アルバムの写真で見たから、顔は覚えていた。


「もしかして、真里ちゃんかい?」


 おばあちゃんは数秒固まったあと、目を丸くしてそう言った。


「はい、真里です。お久しぶりです」


 緊張からか、声が掠れてしまう。おばあちゃんは涙ぐんで、「よく来てくれたね。ここ、座って」と丸椅子に指をさした。

 私は言われた通り丸椅子に腰掛けた。肝心の父は眠っているようだった。


「手術が終わったばかりでね、今日は目を覚まさないかもしれないの。せっかく来てくれたのに、ごめんね」


 おばあちゃんはそう言ったけれど、私は内心ホッとする気持ちもあった。父と何を話せばいいのか、ここへ来るまで考えていなかったから。

 しばらくの沈黙の後、おばあちゃんは父のことを話してくれた。

 父は今、おばあちゃんと二人で暮らしているらしかった。不倫していた女とは、ずいぶん前に別れたんだとか。父が運転するバスに、私が乗っていたこともおばあちゃんは知っていた。私のおかげで、父の体調はここ三年はよかったとおばあちゃんは言ってくれた。

 それでも手紙にあったように、父はもう長くは生きられないらしい。悲しいけれど、私にはどうすることもできないのだ。それが悔しかった。


 おばあちゃんとしばらく話した後、私は立ち上がった。


「そろそろ帰ります。お父さんとは話せなかったけど、おばあちゃんと話せてよかったです」


「真里ちゃんさえよければ、また会いに来てあげて」


 私は返事をしなかった。たぶんもう、ここへは来ないだろうな、となんとなく思った。

 ふと思い出して、ポケットからスマートフォンを取り出し丸椅子の上に置いた。そして再生ボタンを押す。


「これは?」おばあちゃんは私に訊ねた。


「お父さんの手紙に、私のピアノを聴きたいって書いてあったんです。さっき、録音した『きらきら星』です。お父さん寝てるから、聴こえないかもしれないけど」


 そうなの、とおばあちゃんは破顔する。私が泣きながら弾いた『きらきら星』が、静かな病室に響き渡る。

 父に、私の想いは届いてくれているだろうか。


 再生が終わると、私はスマートフォンをポケットにしまった。

 顔を上げると、父の目から何かが零れたのが見えた。よく見ると、目尻がかすかに濡れている。

 きっと父に届いたのだ、と私は思った。


「今まで、ありがとうございました」


 私は父に頭を下げた。反応はなかった。この言葉も、きっと父に届いてくれるだろう。

 私はおばあちゃんにも頭を下げて、病室を出た。




 三日後、ピアノのコンクールが行われた。

 直前まで辞退しようかと考えていたけれど、父の言葉を思い出し、私は『無限のバス』の中からコンクールに参加する、というバスを選んだ。


 コンクールの結果、私は惜しくも入賞を逃した。でも、今までで一番納得のいく演奏ができた。

 会場に駆けつけてくれたピアノ教室の先生も、入賞した人とほとんど差がなかったよ、と言ってくれた。


 その後、私は悩み抜いた末、ピアノの専門学校に進学することを決めた。そのバスに乗ることを選んだのだ。もっと楽な道を進むバスもたくさんあったけれど、私は険しい道を進むバスを選んだ。

 どのバスに乗っても、きっと終点は同じなのだ。どれを選んだとしても、きっと正解なのだ。父の言葉を胸に、私は私の信じる道を歩むことを決めた。


 それからすぐに、高校の卒業式があった。

 私は家を出て、いつもの時間にバスに乗る。


「発車します。ご注意下さい」


 奇跡が起きてくれることを期待していたが、やっぱり声の主は父ではなかった。それに父の運転はもっと優しかったし、私が座ってから発車する。小さくため息をついて、窓の外を眺める。三月に入ったけれど、外にはまだまだ雪が残っていた。


 卒業式なんかで泣くはずないと私は思っていた。けれど式の後半で、不意に涙が零れた。

 皆に会えなくなるのが寂しいだとか、三年間の高校生活を思い出して感極まった、だとかそんなありきたりな涙ではなく、毎朝のように父の運転するバスに乗った日々を思い出して私は泣いていた。

 自分でも不思議に思う。あんなに大嫌いだった父のことを思って、私は泣いているのだ。入学当初の私にそんなことを言ったら、きっと笑われるだろう。

 誰にも気づかれないように、私はそっと涙を拭った。

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