第8話
コンクールが三日後に迫った木曜の午後、私の元に一通の手紙が届いた。封筒に差し出し人の名前はなかった。
表に綺麗な字で、『小田真里様』と書かれている。存在感のある、力強い字だった。
「誰だろう」私は呟いて、手紙を開封する。
中から便箋を取り出す。四つ折りにされたそれを、ゆっくりと開いた。
『真里へ。
海崎弘です。突然の手紙、驚いていることでしょう。本当は書くつもりはなかったけど、思い切って書いてみることにしました。
先日、後輩の高橋から聞きました。女子高生が、私を訊ねてきたって。すぐに真里だと思いました。
彼に聞いたかもしれないけど、私は身体を悪くしてしまって、しばらくバスをお休みしています。
おそらくもう、復帰するのは難しいかもしれません。
ちょうど三年前の、今頃です。医師に余命宣告をされました。すぐにどうこうっていう問題ではないけど、私はもう長くは生きられません。
本当はバスの運転手もその時に辞めるつもりでした。でもそんな時、真里が私の運転するバスに乗ってきたのです。
すぐに真里だと気づきました。二度と会えないと思っていたので、とにかく驚きました。辞める予定だったけど、もう少しだけ頑張ってみようと思いました。
次の日から上司に事情を説明し、なるべく真里がバスに乗る時間に割り当ててもらいました。真里のおかげで、充実した毎日を過ごせました。
お父さんの唯一の楽しみは、真里がバスを降りる時です。
ドスドスと荒々しく音を立ててステップを降りていく時は、機嫌が悪いんだなぁ、と思っていました。逆に、軽やかにステップを降りていく時は、何か良いことがあったんだなぁ、とにんまりしていました。
力なく背中を丸めて降りていく時は、きっと良くないことがあって落ち込んでいるのかなぁ、なんて勝手に心配したりしていました。
そういう日は声をかけてやりたかったけれど、真里のお母さんと離婚した時、二度と真里には会わないでくれ、と言われていたので、結局最後まで声はかけられませんでした。
だから真里がバスを降りる時、いってらっしゃいと、心の中でバスを降りていく真里の背中に声をかけていました。ちゃんと言葉に出して言えばよかったと、今は後悔しています。
真里とお母さんには、たくさん苦労をかけてしまったと思います。きっとお父さんのことを、真里は恨んでいることと思います。自分勝手なことをして、本当に申し訳なく思っています。
何一つ父親らしいことはしてやれなかったので、せめて真里が高校を卒業する日まで、毎日学校に送り届けてやりたかったけど、それも叶わなそうです。ダメな父親で、心苦しい限りです。
そういえばこの間、真里のお母さんに何年かぶりに連絡をしました。もう働くことは難しいので、いろいろ援助ができなくなる、その連絡を入れました。
それから真里が進路のことで悩んでいることも聞きました。詳しいことはわからないけど、真里のピアノの演奏、お父さんは好きです。
真里が小学一年生の頃に弾いてくれた、きらきら星。死ぬ前に、もう一度聴きたかったです。
真里がどうしてそんなに悩んでいるのか、お父さんにはわかりません。ですが、悩むことは決して悪いことではありません。たくさん悩んで、最善の答えを見つけ出せばいいのです。
人生は、バスと同じだと思っています。
バスは毎日同じ道を走ります。人生も、毎日同じことの繰り返しです。でも、時に大きくハンドルを切って、険しい道に進む決断をしなければいけない時がやってきます。きっと今が、真里にとってのその時なのかもしれません。
今、真里の目の前には無限にバスが停車しているのです。どのバスに乗るかは、真里が決めなくてはいけません。
真里がどのバスに乗っても、お父さんは真里を応援しています。
きっと終点は、全て同じところに辿り着くはずだから。
自分を信じて、突き進んでください。
手紙のことは、お母さんには内緒にしておいてください。
真里の幸福と、成功を心から祈っています。
どうか、末長くお元気で。
海崎弘』
読み終わった頃には、目には涙が溢れ手紙の文字が歪んで見えた。堪えられずに流れた涙は頰を伝い、やがて零れ落ちた。
父の温かい言葉に胸を打たれ、涙が止まらなかった。
ふと、封筒にもう一枚便箋が入っていることに気がついた。それは父のお母さん、つまり何年も会っていない私のおばあちゃんからのものだった。
父は私と会う気はないらしいが、どうか会ってあげてほしい、という内容のもので、病院の名前や住所、病室の部屋番号などが記されていた。
私はすぐに服を着替えた。しかしコートに伸ばした手は止め、私は電子ピアノの椅子に座り、鍵盤蓋を開けた。
スマートフォンを譜面台に立てかけて、私は泣きながら『きらきら星』を弾いた。
指の一本一本に、父への想いを込めて弾いた。本当は寂しかった、この十年間の想い。複雑な気持ちだった、父と再会した三年間の想い。様々な想いが混ざり合い、美しい音色となって私の部屋に響き渡った。
高校一年の春、初めて父に気づいたあの日。私はその日から毎日のように父が運転するバスに乗って学校へ通った。
最初は憂鬱だった。けれどいつしか私は、父の運転が心地良くなって、朝の三十分が楽しみになっていった。
今日は父ではありませんように、という私の願いはやがて、今日は父でありますように、へと変わっていった。
私が失恋をしたり、友達と喧嘩をしたり、ピアノが上手く弾けなくなったりと、落ち込んでいた日も毎日、父は私を学校へと運んでくれた。
父の聞こえない『いってらっしゃい』は、毎日私の背中を押してくれていた。
声をかけたかったのは私だけではなく、父も同じ気持ちだったのだ。
お父さんのこと、恨んでなんかいないよ。
今は、そう声をかけてやりたい。
毎月の給料も私のために振り込んでくれて、父は三年間、いや、十八年間私のことを陰で支えてくれていたのだ。
──すごいな真里、上手に弾けたなぁ。
初めて父に『きらきら星』を聴かせた時の言葉が、不意に頭の中で蘇る。
あの日から父は変わらず、私のことを愛し続けてくれていた。
バスの中で心は繋がっていたのだと思うと、溢れた涙が止まらない。それでも私は手を止めず、泣きながら最後まで演奏を続けた。
弾き終わると、私はスマートフォンを掴んでコートを羽織り、家を飛び出した。
雪がはらはらと舞い落ちる中を、私は必死に走った。
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