第7話

 十二月になっても、年が明けても、私は父の運転するバスに当たることはなかった。仕事を辞めてしまったのか、転勤になったのか。はたまたクレーマーのせいで謹慎処分になってしまったのか。何もわからないまま、時間だけがいたずらに過ぎていった。


 そんな中でも私は日々、ピアノの練習に明け暮れていた。毎年二月に行われるコンクールに出場するために、ピアノ教室や家で毎日のように練習していた。翔くんが来てくれるはずだった、あのコンクールだ。高校生部門に出場できるのは、今年で最後になる。一年と二年の時も出場していたが、いずれも入賞には至らなかった。


 私は毎年コンクールの日が近づいてくると、ナーバスになって必ずスランプに陥る。今年も例年通り、問題なく弾けていた部分のミスタッチが増え、指も上手く回らなくなっていた。


 私の最近の悩みはそれだけではなかった。本当に私は、音楽の道に進んでよかったのだろうか、と今更になって悩んでいた。ピアノでご飯を食べていくなんて、相当の覚悟と才能がなければ難しい。ピアノで成功する人など、ほんの一握りなのだ。すでに入学が決まっているけれど、今回のピアノコンクールで結果がでなければ、私は入学を辞退しようと考えていた。



 あと一週間で二月になる。私たち三年生は、二月からは授業がなくなるので卒業式までバスに乗ることがない。

 その日も運転席に父の姿はなかった。

 最後にひと言だけ、お礼が言いたかった。しかし次の日も、また次の日もバスを運転したのは父ではなかった。


 そして金曜日になって、最後の登校日がやってきた。

 バスがバス停に到着しても、私は運転席を見ずに俯いて乗車した。


「発車します」


 一番後ろの席に腰掛けると、バスが発車した。アナウンスの声は、思っていた通り父のものではなかった。私はため息をついて、流れていく外の景色を眺めていた。


 私はその日、いつも降車する高校前のバス停では降りず、そのまま座席に腰掛けて終点まで乗り続けた。

 終点に着くと、バスの運転手が立ち上がり座席の点検を始める。若い運転手だ。彼はすぐに私に気がついた。


「あれ、終点ですよ」


「あの、訊きたいことがあるんですけど」


 彼は怪訝そうに私を見て、腕時計に視線を落とした。すでに授業は始まっている時間だろうけど、そんなことはどうでもよかった。


「なんでしょうか」


「海崎弘っていう人、いましたよね。辞めちゃったんですか?」


 単刀直入に訊いてみた。若い運転手はすぐに理解したようで、「ああ、海崎さん?」と私に聞き返したが、その表情は曇っていた。


「海崎さんなら、今休職中だよ。ずいぶん前から体調が良くないみたいだよ」


「え……そうなんですか?」


「うん。あれ、もしかして君……」


「あ、違います。失礼します」


 私は頭を下げて、逃げるようにバスを降りた。

 そこからしばらく歩いて、来た道を戻る。

 体調が良くないって言ってたけど、病気なのかな。卒業式までに治って、復帰してくれるのかな。そんなことを考えながら、ひたすら歩いた。

 途中で雪が降った。それでも構わず、どこへ向かうでもなく私は何時間も歩き続けた。



 翌日、私はお母さんに悩みを打ち明けた。ピアノが上手く弾けなくなってしまったこと。専門学校の入学を、辞退しようと考えていること。父のことは、迷ったけどお母さんには黙っていた。


 話終えると、予想通りお母さんは「なに馬鹿なこと言ってるの!」と私を叱咤した。


「もう入学が決まってるんだから、今更行きたくないなんて言わないでよ」


 お母さんは呆れたように言った。すでに入学金は払っているので無理もないことだった。お金はこつこつ働いてお母さんに返すつもりでいた。それくらい、ピアノを弾くことが嫌になっていたのだ。私は返事をせずに、自分の部屋にこもった。

 本当はピアノコンクールも辞退したい。父のことも少なからず心配で、心の中がめちゃくちゃだった。


 それでも一応練習はしなくちゃいけない。大舞台で恥はかけない。私は電子ピアノの椅子に座り、鍵盤蓋を開けた。数年前に中古で買った、安いピアノだ。


 鍵盤に指を乗せ、呼吸を整え、ゆっくりと課題曲を弾き始める。

 やっぱり、今日も上手く弾けない。私の心の迷いが、そのまま演奏に反映されているように。

 演奏を中断し、鍵盤蓋を閉じた。悔しくて涙が零れそうになった。

 何もかも忘れたくて、私はベッドに倒れるようにダイブした。

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