第6話
制服の肩についた桜の花びらを見て、春の訪れを実感する。
私が父の運転するバスに乗り始めてから、三度目の春を迎えた。肩についた花びらを捨てるのがなんだかもったいない気がして、上着のポケットにそっと入れた。
私はついに高校三年生になった。
最近はアルバイトやピアノ教室などで、忙しい日々を送っている。
そんな中、私は進路のことで迷っていた。進学するか、就職するか。私の友達は全員、進学するらしい。元カレの翔くんは、東京の大学を受験するとのことだった。直接聞いたわけではなく、風の噂だけど。
「真里、ピアノの学校に行きたいんでしょ? お金のことは気にしなくていいから、あなたの好きにしなさい」
お母さんはそう言ってくれたけれど、きっと無理をしている。うちにお金に余裕なんてあるはずないのだ。だから、私は就職しようと考えていた。
六月になって、学校で三者面談が行われた。就職したい私と進学を勧めるお母さんの意見が食い違い、結局進路は決まらなかった。
その翌週、お母さんに話があると言われ、私はリビングのソファに腰掛けた。お母さんは通帳をテーブルの上に置いた。
「これ見て。あんたには言わないつもりだったんだけど、うちにはこれくらいのお金があるの」
私は通帳を開いた。想像もしていなかった数字が、そこにはあった。
「このお金、どうしたの?」
私は動揺しながら、お母さんに訊ねる。
「真里のお父さんがね、毎月振り込んでくれるの。私はいらないって何度も言ったんだけど、離婚してから十年間、真里のためにって毎月勝手に振り込んでくるのよ」
耳を疑った。父が私のためにそんなことをしていただなんて、露ほども思っていなかったから。
学費を一括で払っても、余ったお金で海外旅行に行けるくらいの金額だ。
「でも、別に感謝することないのよ。それくらい、父親として当たり前のことなんだから」
お母さんは冷ややかな目でそう言った。父がバスを運転しているのは、私のためでもあったのだ。そう思うと胸が熱くなった。
その後私は進路を変更し、音楽の専門学校へ通うことを決めた。そこなら時間はかかるけれど家から通うのも問題はないし、私が行きたかった音大よりも学費は安いし実技試験もない。何より私の好きなピアノを学ぶことができる。今まで大嫌いだったけれど、ほんの少しだけ父を許してもいいかな、と思えた。
翌週、久しぶりに父の運転するバスに乗った。毎週必ず二回以上は父のバスに当たっていたが、先週は珍しく一度も父が運転するバスには乗れなかったのだ。
私は父にお礼を言おうか迷っていた。ありがとうと、ひと言だけ言ったほうがいいよな、と思っていた。
しかし結局、降りる時に何も言えなかった。私が降りる時にお礼を言ったのは、運転手である父のほう。父にとって私は、ただの乗客の一人に過ぎない。こうなったら私が卒業する日にお礼を言おう、と決めた。卒業したら父と会うことはなくなるし、後々気まずくはならない。私が卒業する日、運転手が父じゃなかったら諦めよう。別にそれでもいいかな、と考えていた。
十一月の初雪は、予報よりも多く降ったため、バスが十五分ほど遅れてやってきた。
私は左側の一番前の席に座った。ここは父が運転する姿がよく見える。最近の私の特等席だ。
次のバス停で、松葉杖をついた男の子が乗ってきた。彼は私と同じ高校に通う男の子で、私の友達の弟でもある。なんでも、サッカー部の練習中に足を挫いてしまったらしい。ステップを上がるのに苦戦して、数分かけて彼は座席に腰掛けた。
例のクレーマーのおっさんが、聞こえよがしに舌打ちをした。すでにバスがだいぶ遅れているせいか、イライラしている様子だ。
次のバス停では、腰の曲がったおばあさんがゆっくりとバスに乗ってきた。おばあさんが席についてから、バスは発車する。
クレーマーのおっさんは、激しく貧乏ゆすりを始めた。
彼の怒りが爆発したのは、そこから二つ目のバス停に到着した時だった。先ほど乗ってきたおばあさんが降車ボタンを押し、バスが停車してからゆっくりと出口に向かった。
「降りるんなら早く降りろよババア! てか、こんな近い距離でバスに乗るんじゃねぇよ! 遅刻しちまうだろうが! 松葉杖のガキもチンタラバスに乗りやがってよ! どいつもこいつも!」
相当ストレスが溜まっているのか知らないけれど、おっさんは顔を真っ赤にして一気に捲し立てた。雑談をしていた学生たちは黙り込み、車内は水を打ったように静まり返る。私はぽかんと口を開けて成り行きを見ていた。
「他のお客様のご迷惑になります。お静かに願います」
おそらくマニュアル通りのアナウンスを父はした。おっさんの怒りの矛先は、今度は父に向けられる。
「バスが遅れてんだからよ、お前も怪我人とかジジイババアに早く乗れ、早く降りろって注意したらどうなんだ! そもそも、迷惑だから乗り降り遅いやつはタクシー使えよ!」
おっさんは興奮しすぎてめちゃくちゃなことを口走った。
数秒の沈黙の後、父のアナウンスが車内に流れる。
「バスの名前の由来はご存知でしょうか。ラテン語で、『全ての人のための』という意味があります。怪我をした方でも、お年寄りの方でも、バスは全ての人のために存在しています。ですから、私はどんな人がバスに乗っても、迅速に、安全に目的地まで送り届けます。私の仕事は、それだけです」
父はそう言って運転席から離れ、おばあさんの手を取って一緒にステップを降りた。
父が戻ってくると、乗客たちの拍手が沸き起こる。最初は疎らだったけれど、一人が拍手を始めると、次第に増えていき最後には私も少しだけ拍手をしてやった。クレーマーのおっさんは腕を組んでむすっとしていた。
「では、発車致します」
再びバスは動き出す。私は父が運転する様子を、学校に着くまで眺めていた。
卒業式の日まで、毎日父が運転するバスに乗れたらいいな、と思った。
しかし翌日から父は、私の前から姿を消した。
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