第4話

 私は高校二年生になっても、週に二回から三回、多い時は四回も父の運転するバスに乗って学校へ通った。


 そして二年になってからすぐに、私に初めての恋人ができた。

 翔くんという、同じクラスの男の子だ。彼のことは一年生の頃から気になっていたので、嬉しくて思わずお母さんに報告した。

「男なんて…」とお母さんはため息をついていたけれど、私は初めてできた恋人に浮かれていた。

 映画を観に行こう、と思い切って私から誘い、その帰り道に彼が付き合おうと言ってくれた。


 その日から私は翔くんに夢中で、父のことなど気にならなくなっていた。どうせ向こうは私に気づいていないだろうし、いちいち気にするのもなんだか馬鹿らしい。私は幸せになるから、せいぜい定年まで頑張れば、と思うようになった。

 私と父は、他人なのだ。今はもう私とは関係のない、ただのバスのおじさんだ。

 毎日学校に行くのが楽しみになって、苦痛だった朝の三十分間も、余裕で耐えられるようになった。


「真里のピアノ、聴いてみたいな」


 翔くんにそう言われ、私たちは放課後、誰もいない音楽室に忍び込んだ。リクエストはないかと訊くと、彼はバッハかベートーヴェンと答えた。きっと他に思いつく音楽家がいなかったのだろう。


 少し考えて、バッハの『G線上のアリア』を弾くことにした。弾き慣れている、簡単な曲を私は選んだ。この曲なら翔くんも知っているだろうと思ったから。

 鍵盤蓋を開け、私は一呼吸置いてからピアノを弾き始める。男の人にピアノを聴かせるのは、父以来のことだった。


「あ、この曲聴いたことある」


 弾き始めるとすぐに翔くんは言った。私は彼に微笑みかけて、演奏を続ける。

 二人だけの静かな音楽室は、穏やかで優しい音色に包まれる。時間がゆっくりと流れるのを感じた。翔くんは頰を緩めながら、慈愛に満ちた表情で私の演奏を聴いてくれた。


 演奏が終わると、彼は拍手をしてくれた。すごいよ真里、と褒めてもくれた。

 その姿が一瞬、幼い頃の私を褒めてくれた父と重なって見えた。


 

 帰り道、私は翔くんに父のことを話した。誰かに父のことを自分から話すのは、これが初めて。


「なにそれ、すごい偶然じゃん! お父さんに声かけてみなよ!」


 彼はそう言ったけれど、私はかぶりを振った。


「あっちは仕事中だから。他のお客さんにも迷惑だし」


「前の席に座って、信号待ちの時に声をかけるとかは?」


「そこまでして話したくはないかな。それよりさ……」


 私は強引に話を変えた。父に声をかけたらどんな反応をするのか、少しだけ興味はあった。でも声をかけるなんて絶対無理だ。想像するだけで全身がむず痒くなった。



 翌日、私は初めて一番前の席に座った。左側の、一番前の席。そこは父の運転する姿がよく見える。

 しかし私は、信号待ちの時も、バスを降りる時も声をかけられなかった。

 ──やっぱ、無理だよ。

 下を向きながら、私はとぼとぼ歩いて学校へ向かった。


 それから翔くんと私は、放課後になるとたびたび音楽室に忍び込むようになった。彼は私のピアノを褒めてくれて、私の演奏を好きだとも言ってくれた。冬に行われるピアノコンクールにも、彼は来てくれると言った。

 音楽室で翔くんと過ごす二人だけの時間は、私にとって大切なものとなった。



 しかし別れは突然、音もなく訪れた。


「ごめん真里。他に好きな人ができたんだ」


 私の幸せだった毎日は、そのたったひと言で崩れ去った。初めての失恋だった。わずか三ヶ月という短い時間。そしてあまりに急な彼の言葉に、私の心は深く傷つき、その日から一週間、学校を休んだ。


「男はね、結局口だけなのよ。調子いいことばっかり言って、どうせ浮気するし他の女に目移りするし、ろくな生き物じゃないよ」


 学校を休んだ理由を仕方なく話すと、お母さんは顔をしかめて早口で捲し立てた。

 いい勉強になったね、と言ってお母さんは私の部屋から出ていった。私は布団を頭からかぶり、一晩中泣き続けた。



 次の日も学校を休んだ。私はピアノの前に座って、鍵盤蓋を開けた。

 彼の好きだった、バッハの『G線上のアリア』を弾き始める。私も彼も、穏やかで美しいメロディのこの曲が好きだった。

 一つ一つの音色が、私を優しく包み込む。翔くんが私を抱きしめてくれた時の、あの感覚に似ている。この曲は私の恋の始まりの曲でもあり、終わりの曲でもあった。

 弾き終わると、私は人知れず涙を流していた。

 

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