第3話
そんなある日のこと。私はその日も父が運転するバスに乗って学校へ向かっていた。
バスが混雑してきた頃、赤ちゃんの泣き声が車内に響いた。母親がいくらあやしても赤ちゃんは泣き止まず、あからさまに舌打ちをする乗客もいた。
「おい! さっきからうるせえな! さっさと泣き止ませろ!」
私の斜め前に座っていたおっさんが座席から身を乗り出して怒鳴り散らした。赤ちゃんは驚いたのか、さらに激しく泣き声を上げる。母親は、すみません、すみません、と何度も頭を下げる。
私はおっさんを睨みつけた。赤ちゃんなんだから仕方がないだろう。その場にいた誰もがそう思ったに違いない。
「うるせえなぁ」
お前のほうがうるさいよ、とは言えず、私はおっさんを睨み続ける。
「他のお客様のご迷惑になります。車内では、お静かに願います」
突然のアナウンスに、私は呆気にとられた。
「すみません、すみません」
母親は申し訳なさそうに謝る。
「ほらみろ。早く泣き止ませろよ」
おっさんは得意げに笑う。彼の言動はいちいち鼻につき、私は文句を言ってやろうかと拳に力を込める。
「私はあなたに言ったんです。他のお客様と、赤ちゃんにご迷惑です。お静かに願います」
父の予想外の指摘におっさんは不意をつかれたのか、だらしなくぽかんと口を開けていた。
「運転手さんの言う通りだよ。うるせえよ、おっさん」
「おっさんだせえ」
私の後ろに座っていた、同じ高校に通う先輩たちが口々に言った。
おっさんは顔を真っ赤にして黙り込む。私は何も言えなかったけど、ざまあみろ、と内心思っていた。
「クレーム入れてやるからな」
おっさんは降りる時、捨て台詞みたいに父に指をさして言った。
ありがとうございました、と父は何事もなかったようにバスを発車させる。私は身を乗り出して、運転席上部にあるバックミラーに目を向け、父の表情を窺う。しかし角度が悪かったのか、父の顔は見られなかった。
「あの、ありがとうございました」
赤ちゃんを抱いた母親はバスを降りる時、父にお礼を言っていた。赤ちゃんは泣き疲れたのか、すやすや眠っていた。
「いえ、乗務員として当然のことをしたまでです。またのご利用お待ちしております」
父はそう言って、再びバスを発車させる。
かっこつけちゃって、ばーか。と私は思いながらも、心は晴れやかだった。
「ねぇお母さん。お父さんって今どこで何してるの?」
翌朝、私が毎朝父の運転するバスに乗っていることをお母さんは知っているのかな、と思って遠回しに訊いてみた。
「そんなこと知るわけないじゃない。急にそんなこと訊くなんて、どうしたの?」
お母さんはあからさまに不機嫌な顔になった。私だけではなく、きっとお母さんも父とはあれ以来会っていないのだろう。この町に私たちが引っ越してきたのも、おそらく偶然に違いない。
「いや、なんとなく訊いてみただけ。ごちそうさま」
気まずくなってしまったので、食器を流しに置いて私は急いで支度を済ませて家を出た。お母さんに内緒で、父の運転するバスに乗って学校へ通っていることに少しだけ罪悪感があった。お母さんが知ったら、どう思うだろう。
ちくちく痛む胸を押さえながら、バス停まで歩いた。
また今日も父が運転するバスに乗った。
いつもは一番後ろの席に座っていたが、最近は真ん中辺りに座るようになった。特に理由はないけれど、なんとなく真ん中らへんでもいいか、と思ったから。
家に帰ってから、私はアルバムを探した。押入れから二冊の分厚いアルバムが出てきた。
私が生まれてから、今日に至るまでの写真たちがそこには貼られている。しかし、アルバムにはびっしりと写真が埋まっているわけではなく、所々写真が抜けているページもあった。普通に貼れば片面六枚か七枚くらいは貼れるだろうに、写真が二枚しか貼られていないページもある。
お母さんに訊こうかと思ったけれど、やめておいた。おそらく、抜けているのは父が写っていたからだろう。どのページを見ても、父の写真は一枚もなかった。
私やお母さん、おじいちゃんおばあちゃんの写真だらけで、父の写真はない。きっとお母さんが処分してしまったのだろう。父方のおじいちゃんおばあちゃんが写っている写真は残ってあった。
今でも父方のおじいちゃんおばあちゃんとは、年賀状のやり取りだけはしているらしい。私はもう何年も会ってないけれど。
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