第2話

 翌日からの二日間は、父ではなく別の運転手がバスを運転していた。

 しかし、ああよかった、父に会わずに済む、と安堵していたのも束の間だった。


 週が明けた月曜日、バスに乗るとまたしても父が運転していた。

 やだなぁと思いながら三十分バスに揺られ、降りる時に私はとんでもないミスを犯してしまった。

 いつものようにICカードを機械に挿入すると、ピピピッという警告音が鳴ったのだ。


 やってしまった。ICカードの残高が不足していたのだ。父にチャージしてもらわなければならないことに気づき、心臓が止まりそうになった。

 固まってしまった私を、運転手──父は不思議そうに見ている。運転席のほうで何か操作をし、父は「どうぞ」と低い声で言った。

 私は俯きがちに急いでICカードを機械にかざし、チャージを済ませて運賃を支払い、逃げるようにバスを降りた。

 

 バスを降りてからもしばらく、胸の鼓動は加速したままだった。

 一日が終わる時のような疲労感に襲われた。大きく息をついて、学校へ向かう。


 向かう途中で、先ほどのやり取りを反芻する。父は、私に気づいていない様子だった。ホッとする反面、震えるような怒りも覚えた。やっぱりあいつは、私のことを覚えていないのだ。

 サイアクのサイテーだ。私は鞄を乱暴に肩に掛け、学校までの道を歩いた。



 その後は三日連続で父が運転するバスに乗ってしまった。

 乗るバスの時間を変えようかとも思ったが、時間を下げたら遅刻するし、一本早いバスに乗るというのも、なんで私があいつのために早起きしなきゃならんのだ、と腹が立ってやめた。

 こうなったら自転車で通おう、と決めたが、それも二日で断念した。


 初日はまだよかったが、二日目には天気が荒れ、強風の中私は必死にペダルを漕ぐ羽目になった。スカートはめくれるし髪はボッサボサ。なんで私がこんな辛い思いをして学校に通わなきゃならんのだ、と結局腹が立ってやめた。


 学校帰りは私はあまりバスには乗らない。友達の自転車の荷台に座って一緒に帰ったり、駅前のカフェに寄ってそのまま電車に乗って帰ったりと、バスに乗ることは少なかった。自宅から最寄りの駅までは、歩くと時間がかかるので普段は利用することはない。

 だから、私が父と顔を合わせるのは朝の三十分間だけなのだ。


 それからの一ヶ月間、私は父が運転した日は手帳に丸をつけた。平日はだいたい二回から三回、多い日は四回も父が運転するバスに当たる。田舎だから、バスの運転手もきっと少数で事足りるのだ。手帳に丸がついた日は、私はいつも機嫌が悪かった。



「ねぇお母さん。次いつ引っ越すの?」


「何言ってるの。まだ引っ越したばっかりじゃない。ここ、そんなに気に入らない?」


 お母さんは部屋を見回して口を尖らせた。それから「お母さんは気に入ってるけどなぁ」と付け加えた。


「部屋が気に入らないってわけじゃないけどさ」


「ならいいじゃない。引っ越しするのもタダじゃないんだからね」


 はーい、と気怠げに返事をして、私は家を出た。今日はピアノ教室でのレッスンがある日だ。私は昔から、ピアノを弾くことが好きだった。私が何故ピアノを好きになったのか、それは皮肉にも父のおかげでもある。


 私の七歳の誕生日に、父がおもちゃの電子ピアノを買ってくれたことがあった。その日から私はピアノに夢中で、学校から帰ると毎日のようにピアノを弾いていた。


 その頃は父のことが大好きだったので、私は父を喜ばせようとそのピアノをひたすら練習し、やがて『きらきら星』を弾けるようになった。

 父が仕事から帰ってくると、私は褒められたくて毎日きらきら星を弾いた。何度聴かされても、父はいつだって私を褒めてくれた。


 しかし私の七歳の誕生日から三ヶ月が過ぎた頃、父の不倫が発覚し、家庭が崩壊した。

 私はその日からきらきら星を弾かなくなったし、大嫌いな曲になった。あのメロディが流れると、嫌でも父を思い出してしまう。

 七歳の誕生日に買ってもらった電子ピアノは、お母さんが捨ててしまって今はウチにはない。それでも私はピアノが好きになって、小学生の頃からピアノ教室に通っていた。



 それから私は、晴れの日も雨の日も、毎日のように父が運転するバスに乗って学校へ通い続けた。最初は嫌だったけれど、三ヶ月もすれば慣れてしまった。いつも外から運転席を確認していたけれど、いつしかそれもしなくなった。


 アナウンスの声で、今日は父だ、とわかるようになった。父のアナウンスは丁寧だし、何よりバスの運転が他の運転手よりも優しい。微妙な違いだけど、私にはそれがわかるようになった。

 だからといって、父のことを許したわけではないけれど。


「ご乗車ありがとうございました。お忘れ物ございませんよう、ご注意下さい」


「発車致します。お立ちのお客様は、吊り革、手すりにお掴まり下さい」


「この先バスが揺れますので、ご注意下さい」


 腹が立つほど、父のアナウンスはバカ丁寧だ。きっと仕事に関しては真面目な人なのだ。仕事に関してだけは。


 私には父との思い出がほとんどない。小学一年生の夏に父は去ったのだ。思い出がないというより、覚えていないと言ったほうが正しい。それから十年間、父とは一度も会っていなかった。二度と会うことはないだろうと思っていた。だって父は、私の中で死んだことになっていたのだから。

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