無限のバス
森田碧
第1話
「お父さんは死にました」
一切の感情を乗せず、私は無機質な声で言い放つ。この言葉を、今まで何度口にしてきただろう。父のことを訊かれるたびに、毎回のようにそう答えてきた。
小学一年生の夏から、私の中で父は病死したということになっている。
「あらら、それは辛いことを訊いてごめんね」
「いえ、いいんです」
「じゃあ、どうしてここのコンビニで働きたいと思ったの?」
「家が近いからです」
店長は履歴書に目を落とし、眉間にしわを寄せる。私の返答は彼の望むものではなかったらしい。
「それにしても珍しい名前だねぇ。小田真里なんて。おだまり! って言われない?」
「はい。よく言われます」
そうかそうか、と店長は笑いながら頷いた。私がこんなヘンテコな名前になってしまったのも、全部父のせいだ。私は名乗るだけで笑われてしまう。なんだか無性に腹が立ち、面接を中座した。
高校に入学してから一週間が過ぎていた。毎日遅くまで働いているお母さんの負担を少しでも軽くしたくて、私はアルバイト探しに奔走していた。父のことを訊かれると、どうも腹が立ってくる。また失敗したなぁ、とため息をつきながら私は帰路についた。
「真里ちゃんって、お父さんいないの?」
「来週父の日だけど、真里ちゃんはお父さんに何かあげるの?」
「運動会、真里ちゃんのお父さん来てなかったけど、仕事だったの?」
これまでの人生、そうやって何度も父のことを訊かれてきたが、そのたびに死んだよ、と私は答えてきた。できるなら最初から存在しなかったことにしたいが、そうもいかない。だから父のことを訊かれたら、死んだといつも答えていた。
しかし高校に入学してから一週間が過ぎた頃、私は死んだはずの父を目撃してしまった。
中学を卒業したあと、私とお母さんはお母さんの仕事の都合で隣町のアパートに引っ越した。幸いにも、そこはバス一本で高校に通えるところにあったので安堵した。部屋は綺麗だしコンビニやスーパーも近くて、割といいところに引っ越せたと思う。ただ、一つだけ問題があった。
私が毎朝乗るバスの運転手が、死んだはずの父だったのだ。正確に言えば、死んだことにしている父だった。
父は私が小学一年生の頃に、女を作って家を出ていった。お母さんは毎晩のように泣いていた。お母さんを泣かせた父が、私は大嫌いだった。
そんな父と再会することになるとは思っていなかった私は、その日もいつものようにバスに乗って学校へ向かった。
後ろのドアから乗り込んで、前のドアから降りるタイプのバスだ。
特に理由はないけれど、その日はなんとなく運転席のすぐ後ろの席を選んだ。
座り込んでふと顔を上げると、運転手の名前が書かれたプレートが目に入る。
運転手は『海崎弘』という名前らしい。聞き覚えのある名前だった。その海崎とは、私の昔の苗字でもある。そして父は、バスの運転手をしていたとお母さんから聞いたことがあった。
胸の鼓動が早鐘を打ち始める。まさか、と私は焦る。
私はそのネームプレートを睨みつけた。同姓同名の人違いだろうか。しかし割と珍しい苗字だ。本人である可能性が高い。
アナウンスの声に聞き耳を立ててみても、バスの運転手特有の鼻声で判別がつかない。そもそも最後に会ったのは小学一年生の頃だ。父の声なんて覚えちゃいない。じんわりと手のひらが汗ばむ。
落ち着かないまま目的のバス停に到着した。
バスを降りる時、私はちらりと運転手の顔を覗いてみた。うわっ、と思った。
ため息をつきながらバスを降りる。やっぱり父だった。顔を見た瞬間に、そうだ、こんな顔だった、とすぐに思い出した。今はだいぶ老けてジジイだけど。
私は振り返り、走り去っていくバスにベーッと舌を出してやった。
次の日も、バスに乗ると父が運転していた。バス停で待っている時から、今日は違いますように、今日は違いますように、と祈っていたが、バスがやってきて運転席を確認するとこの日も運転手は父で。バスの外からでも父だとはっきりとわかる。
バスに乗り込むと、私は一番後ろの席に腰掛けた。なるべく父から遠い位置にいたかったから。
乗車時間は約三十分。私はその苦痛な三十分間を耐え抜き、高校のすぐそばのバス停で降車した。
降りる時はなるべく顔を見られないように支払いを済ませ、足早に外へ出る。父に送迎されてるみたいで、気分が悪い。毎日あいつが運転するのかな、と嘆息しながら学校へ向かった。
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