孵化(4)

 柊子への失恋は、ぼくにとって決定的な出来事になりました。これまで築いてきた、いいえ、必死に取り繕ってきた普通が、ぼくの生きるための努力のすべてが、無意味だったと気づかされたのですから。

 ぼくは大学へ行くのを止めました。傍から見れば振られて落ち込んでいるように見えたかもしれませんが、理由はもっと根深いものでした。ぼくはもう耐えられなかったのです。おびただしい数の必要事項をこなしながら人生を生きなければならないこと。それがうまくできなくてどこかで歯車の歪みを生み、他人にぼくは普通ではないと思われること。その異質さと異常さを自覚すること。ぜんぶがもう耐えられませんでした。数学や体育に得手不得手があるように、きっと生きること自体にも得手不得手があるのでしょう。そしてぼくは生きることに向いていない致命的な欠陥品のようでした。

 幸い、一人暮らしでしたから、咎めるような親もいませんでした。カーテンを閉め切り、扉にチェーンをかけ、昼も夜も電気を消し、一日のほとんどを床の上に寝転んで過ごしました。寝転がっているのに眠ることができなくて、ぼくは薄闇のなかでぼんやりと見える壁や天井のシミの数を繰り返し数え続けました。腹が減れば冷蔵庫のなかから食べられそうなものを見繕ってその場で齧りつき、すぐに気持ち悪くなって激しい嗚咽に見舞われて、食べ物が底をついてからは水道水を呷りました。蛇口を覗き込むようにすると上手く飲めなくて、顔も髪も服もびしょびしょに濡れてしまいましたけれど、ぼくはそれを拭くこともなくまた床に寝そべるのです。

 それはさながら監房のようでした。ぼくの部屋は決して存在してはいけない何かを封じ込めておく場所で、世界の淀みが凝縮した空間でした。

 一週間、いや二週間は経ったでしょうか。あるいはまだほんの二、三日しか経っていないのでしょうか。昼も夜も分かりません。何度か眠りに就く瞬間があったような気もしたけれど、ぼくは常に夢うつつで、頭にはぼんやりと靄がかかっていて、昼と夜どころかもう現実と夢の区別が上手くつきませんでした。

 ちょうど視線の先にあるベッドの上に、膝を抱えた少年が座ってぼくを見下ろしていました。それはかつてクラスメイトの背中に容赦のないブーイングをぶつけたぼくで、白紙の卒業アルバムを持ち帰る独りぼっちのぼくでした。

 まあお前はよくやったよ。ぼくはぼくに言いました。けど、所詮、人間もどきは人間もどきってことだね、何をどれだけ取り繕ったって、もどきは人間じゃない、そうはっきり分かっただけでよかったんじゃないの。

「うるさい」

 久しぶりに出した声はひどく小さくて、握り潰されたみたいに掠れていました。

「うるさいっ!」

 ぼくは声を荒げました。ベッドの上で膝を抱えるぼくは声には出さず、目と口元に笑みを浮かべていました。

 ほら、そうやって苛立ってみせるけれど否定はしない、それってつまり自分でも分かってるってことだろう、認めなよ、人間もどき、お前は人の心を解さない、いびつで異質な生き物なんだよ。

 言われたことが図星で、ぼくはそれ以上何も言い返すことができませんでした。代わりにぼくはベッドを蹴飛ばし、ちゃぶ台の上の封筒とかいつからそこにあるのか分からない床の上の洗濯物とか、ぼくが普通であるために積み上げてきた生活のあれこれを薙ぎ払いました。暴れ狂って部屋をめちゃくちゃにして、足を踏み鳴らしながら玄関へ向かって、ぼくはスニーカーを履きました。ランニングシューズと比べて薄く心もとない靴底で、ぼくは地面を蹴って走り出しました。現実のぜんぶを置いてけぼりにして、ぼくは孤独へと逃げ込むことを選んだのです。


   †


 地面を引っ掻くような、軽快とは言えない足音が静まり返った住宅地に響きました。

 夏の夜は空気が湿っていて、ほとんど壁のようにぼくの行く手に立ちはだかり、吸う息は口と喉の間あたりで引っかかって、二年近いブランクのせいで身体は思うように動きません。それでもぼくは懸命に腕を振り、無理矢理に脚を動かし続けました。息が上がって胸の奥が痛いほどに脈打っても、突き上げられる衝撃に足の裏が悲鳴を上げても、ぼくは走ることを止めませんでした。

 独りになりたかった。周囲の人が剥がれ落ちていって陥った孤独と、自ら選んで逃げ込んだ孤独は違いました。風と呼吸と足音だけが響く、純粋な世界だけが、今のぼくを救ってくれるものでした。

 心臓に押し出された血液が全身を巡っていきます。にわかに熱を持った身体はじんわりと汗をかきだして、肌にまとわりつくようだった空気はすぐに乾いて感じられるほどになりました。風があっという間に遥か後ろへと流れていって、足音は不規則ながらもリズムを刻み続けます。遮るものはありませんでした。ぼくはこの瞬間、世界から少し切り離されていく快感に身を委ねることができるのです。

 その、ほんの一瞬の出来事でした。

 映る景色は真っ白な光で満たされて、耳を刺すような甲高い摩擦音が響きました。孤独の世界は濡れた紙よりも容易く引き千切れ、塗り潰され、ぼくの身体は浮遊感に包まれていました。

 身体を衝撃が貫きます。何が起きたのかは分かりませんでした。気がつけばぼくは地面に横たわっていて起き上がることができず、水のなかに沈んだみたいに遠くなった耳に誰かの悲鳴が聞こえてきました。

 地面を伝ってやけに響く足音がして、男の人の声がぼくに降りかかります。大丈夫か。おい、誰か救急車を呼べ。そんなことを言っていたような気がしました。

 うつ伏せになっていたぼくはなんとか身体を起こします。遠かった悲鳴が、今度はやけに大きく鮮明にぼくの耳に聞こえました。大丈夫かと声を掛けてくれた男の人の顔が見えました。けれど一瞬前の心配はどこへいってしまったのか、青ざめた顔でぼくを凝視したままゆっくりと後退りました。

 ぼくは立ちあがりました。男の人は思っていたより小柄なのか、立ち上がったぼくを青ざめた顔で見上げていました。徐々に鮮明になっていく視界の隅では、ガードレールに追突したトラックが見えて、ぼくはたぶんトラックに轢かれたのだろうと推測します。身体はずきずきと痛んでいましたし、口のなかは血の味がしていたことも、自分が交通事故に遭ったのだということに確証をもたらしていました。

 みんなの視線がぼくに集まっていました。ぼくは怖くなりました。理由は分かりません。けれど、仮に交通事故に遭って派手に地面を転がったとしても、こんな風に不躾な視線を向けられるいわれはありません。

 誰かがスマホを構えてシャッターを押しました。それが引き金でした。

 心のなかに芽吹いていた恐怖と不安は一瞬にして沸点に達し、ぼくはその場から逃げ出すように走り出しました。全身が痛みました。骨が折れているのかもしれません。視界が赤いのは、頭から血が流れているせいでしょう。手で乱暴に視界を拭うと、すれ違う人や追い越される人の姿が見えました。みんながぼくを見ていました。走りすぎていくぼくを愛で追いかけました。その視線は好奇と嫌悪と恐怖と侮蔑が入り混じっていました。突き刺さるそれにぼくは恐怖を覚えました。まるでずっと隠し続けてきた自分のなかの異質さを、見透かされているような不安を感じたのです。ぼくは走り続けました。身体がばらばらになりそうなくらい痛んでも、息がうまくできなくなっても、ぼくは走り続けました。そして、人気のない公園へとたどり着きました。

 公園の隅には忘れられたように佇んでいる公衆トイレがありました。ぼくは血と汗を洗い流したくて、肩を上下させたまま足を引き摺ってトイレへと向かいました。

 トイレは入口の前からすでに鼻の奥を突くような嫌な臭いがしていて、床のタイルは泥で汚れていました。明滅しているライトの周囲では蛾が舞っていました。床を踏みしめるとぬるりとした感触が足の裏を伝わって、息が上がっているせいでトイレの空気があっという間に肺へと流れ込んできました。

 入ってすぐ、右手側に縦に並んだ洗面台がありました。ぼくは四隅が割れたり黒ずんだりしている鏡の前に立ちました。けれどぼくはどこにもいませんでした。そこに映っていたのは、まごうことなき怪物でした。

 上下二つずつ、左右に開閉する昆虫のような顎。魚類を連想させる大きくて潤んでいるのに光だけが沈んで消えたような暗い目。肌はざらついた岩肌のような質感でありながら、生まれたばかりの赤ん坊みたいに血と謎の液体とでぬらぬらと光っていました。

 ぼくは後退りました。鏡のなかの怪物も後退りました。ぼくが首を横に振ると、怪物も首を横に振っていて、どうしたって振り払えない現実が今目の前にあるのだと、ぼくはようやく理解しました。

 怪物は、ぼくでした。

 最初からそうだったのか、あるいは交通事故か何かの拍子に怪物になってしまったのか、ぼくには分かりませんでした。

 けれど恐怖や不安はありませんでした。走っているときはあれほどぼくにまとわりついていた感情は、不思議と微塵も感じられなくなっていました。

 声を出そうとすると、対角線上に四つの顎が開いたり閉じたりして、ぎちぎちと何かを引き千切ったときのような音が吐き出されました。これが今のぼくの声なのでしょう。もう誰にも届かず、誰にも理解されない声でした。とうとうぼくは孤独でした。そしてそのことにどうしようもないほど深く、これまで感じたことのないような安堵を感じるのでした。


 ぼくは人間じゃない。もう人間じゃない。

 だってほら、こんなにも醜い怪物なんだから。

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孵化 やらずの @amaneasohgi

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