第18話 遅い帰宅
家の前に戻ってこれたのは午後七時過ぎ。
「すぅ……はぁ……」
扉の前で呼吸を整える。
嫌に緊張している。
気分は時間が経ったせいか、怒りよりも寂しさ、悔しさが勝る。憎み続ける事に疲れたというのもあるかも知れない。泣いた後の様に喉の奥がひくつく。声は意識的に出さなければ上手く出せそうにない。
家の明かりは点いていて父さんも母さんもいるのが分かる。
「…………」
ドアノブを右手で掴み、数秒動きが止まる。
……こうしていても仕方ない。
「よし」
僅かな躊躇いを振り払う様に右手に力を入れて、俺はゆっくりとドアを開けた。
「ぁ……ただいま」
しゃくり上がる様な声にならない様に気をつけて俺は帰ってきた事を知らせる。俺の声が聞こえたからか、それとも扉の開く音が聞こえたからかリビングから父さんが出てくる。
「おかえり。遅かったな」
父さんが俺を見下ろしながら言う。
「うん」
「飯、出来てんぞ」
それだけ言ってリビングに戻っていった。どうしてこんなに遅くなったのかと父さんは聞かなかった。
「うん」
そう言う日もあるのかもしれないと父さんは思ったのだろうか。何にせよ、何も言及されなかった事が救いの様な気がする。突っ込まれても仕方がないだろう。
「母さん、ただいま」
母さんは食卓に料理を並べていた。
「おかえり、優希。もう、久しぶりに晩御飯作らなきゃいけなかったから時間かかっちゃってさ、ほら、見てご覧なさい。出来立てよ」
並べられた料理は湯気が立っている。
「帰ってくるの遅かったけど、タイミング的には良かったかもね」
出来立てのご飯が食べられるというのは確かにちょうど良かったのかもしれない。父さんが椅子に座ったのを確認して、俺も椅子に座る。
「いただきます」
俺が手を合わせて言うと、母さんが「どうぞ〜」と言ってくる。
箸を焼き魚に伸ばす。
「んむ……」
口の中に広がる熱が心まで届く様な気がした。食卓を囲むこの瞬間に、僅かに今日の出来事から救われるように思えた。
「それでさ、部長がね……」
母さんが仕事の愚痴を吐き、父さんが相槌を打つ。いつも通りの光景だ。
「ははは、仕方ないだろ」
毎日の様な見慣れた光景。
今日は俺は何も話さずにご飯を食べ終える。椅子から立ち上がり母さんに風呂に入ると伝えて、一度二階に上がりバスタオルと着替えを持って戻ってくる。
「酷え顔……」
不幸ですと言う様な顔だ。落ち込んでいますと言いたい様な顔。さっきはもっと酷かっただろう。
洗面所の鏡に顔を背けて服を脱ぎ浴室に入る。
「はあ……」
浴室内に溜息が響く。
「気遣わせたかな」
さっきの父さんはただ帰りが遅くなる日もあると思ったんじゃなく、俺の酷い顔を見て態々何かを聞き出そうと思わなかったんじゃないかとも考えられる。
「……いや」
そんなの意識しない方がいい。
父さんだってそうして欲しくて、やった訳でもないだろうし。もしかしたら何の意識もなくそうやったのかもしれない。
「…………」
ありがとう、と言った方がいいか。
なんとも微妙な問題だ。
言わなくても良い様な気もするし、父さんは気にするなとも言わないと思う。まあ、風呂上がりにでも言っておくか。
そっちの方が心理的に良い。
「そうしよう」
ボディーソープを泡立たせ、身体をアカスリで洗っていく。全身が泡で覆われたらシャワーで流す。
「ん」
髪を洗い、シャワーで流して俺は立ち上がり、浴槽に右足から入る。夜風を浴びて冷えていた身体が温まる。
「はあ」
息が漏れた。
何かが緩んでいく様な気がする。
家にいて、飯を食べて、風呂に入って。この間だけは倉世の事も、三谷光正への憎しみも忘れてしまっても良い様な気がした。
また明日から頑張ろう。
脳裏に浮かんだあのキスシーンを追い出そうと、両手で掬い上げた浴槽内の湯を顔にかける。記憶なんて洗い流れもしないのに。
「…………」
俺は深く肩まで浸かり込む。
ゆっくりと深く深く。膝を抱え込む。
「あつっ……」
五分程度で限界を迎えて湯船から立ち上がる。
「ふう……」
明日から。
今日はもう良いだろう。これ以上はない。家に帰ってきたのだ。もう何もない筈だ。何も考えなくていい。今日は終わりにする。
「おやすみ」
俺が声をかけると母さんが話を一瞬止めて俺の方に向く。
「あ、おやすみね、優希」
リビングで未だに話し込んでいる母さんと父さんに声をかけて上に行こうとして、その前に。
「あ、父さん」
俺の声に父さんが振り向く。
「ありがと」
俺が礼を言うと、父さんはポカンとした様な顔をしてから。
「ん、おう」
と短い返事が聞こえた。
結局、父さんは何も分かってなかったのかもしれない。別にそれでも良いんだ。
「…………」
部屋について直ぐに俺はベッドに身体を投げ出した。
「疲れたな」
色々と。
精神的にも、肉体的にも。瞼を落とせばすぐにでも眠りにつけそうだ。
そうして明日が来て。
俺は、まだ諦めていないから。三谷光正の事を探り出すのだ。
「…………」
部屋の明かりを消す。
スマホに通知は来ていない。篠森からも。なぜ確かめたのか。もしかしたら期待していたのかも知れない。あんな事をしておきながら。
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